Single40'S diary

「40過ぎて独身で」の作者が、あっというまに50代を迎えたブログ

恋愛の体制化について

すでに、現在が「恋愛資本主義」といえる体制にはいっていることは、別に小谷野敦本田透が指摘するまでもなく、真実である。その結果、現在では、すべての恋愛が体制化してきている、と思える。

かつてに日本では、恋愛は、それ自体で反体制的な色彩をもつものであった。
それは、結婚が「家と家の結びつき」であり、家格や収入によって「釣り合いがとれる」相手と結婚が整えられるという家社会の要請に基づくものであったからだ。恋愛は、この枠に沿っていれば歓迎されたが、そうでないときは大反対をうけるものだった。したがって、恋愛自体が、どうしたって反体制的な色彩を帯びることになったのである。

戦後、自由主義の世の中になると、まず恋愛が自由の象徴として扱われたのは、誰にでも分かる戦前戦中における「反体制行動」だったからだ。
一転、世の中は「恋愛は素晴らしい、恋愛こそ自由」となった。
そして、このときから、人間のオスの競争フィールドが「地位」「名誉」から「恋愛」に変わったのである。変わらないのは「財力」で、これは資本主義であるから当然だ。

ここから、恋愛資本主義はスタートした。全く肯定可能な恋愛とセットで、モノが売られるシステムが出てくるのだ。恋愛ドラマが視聴率を取り、CMで流れるクルマが売れ、はやりのスポットの価値はデートに向いていることが尺度になり、恋愛を扱った音楽は軽い流行歌となり、ファッションと同じように恋愛は消費される存在になった。

かつて、恋愛が社会の中で反発や孤立を生みかねない存在であったので、恋愛を扱った小説は孤高の純文学として成立し得た。
しかし、現在では全否定される恋愛はなくなった。たとえば、不倫だとかSMだとかにしたって、かつてほどの非難はない。それは「良くあること」であり、せいぜい「へー、ちょっと意外ね~」程度の出来事であり、それ自体も消費の対象でしかない。恋愛至上主義は、程度の差こそあれ、いわゆる普通の人たちに共通の価値観となってしまったように思える。

今の恋愛資本主義に真っ向から反する存在は「もてない男」だ。クルマも買わず、はやりのスポットにカネを落とさず、ファッションにも興味がなく、流行歌も知らない。当然、資本主義としては困る。
もてない男ほど、もし事件があったときに、疑われる存在はない。近所で刑事事件がおきたとして、不倫しているからといって疑われることはまずない。SM趣味だからといって、銀行強盗や誘拐犯人とは思われぬ。ただ、もてない男だけが「あの人、親しい女性もいないみたいだし、何を考えているか、わかんないわよねぇ」「そうそう、だいたい、あんないい歳こいてヘンだわよぅ」と言われる存在である。
冗談じゃない。私だって、近所で自分が何を言われているか、全く知らないわけでもないのだ。

もてない男であること。それが、いまやもっとも反体制的な存在なのである。
当人達は、決してそうであることを望んだわけではないが、しかし、社会より、そのようにせられた。
これは、一種の迫害である。女にもてないこと自体、現在の社会においては迫害される理由になる。
このルサンチマンは、どうしても深くならざるを得ない。

私は、もてない男達の反撃が、これから始まるのではないかと思っているのだ。もちろん、そうなれば、私だって、何をするかわからんよ(笑)うらみは深いから、なぁ。