Single40'S diary

「40過ぎて独身で」の作者が、あっというまに50代を迎えたブログ

結婚制度の廃止を考える

私は、かねがね「結婚制度の廃止」を考えている。
もちろん、自分が相手にされない腹いせのためでもある(笑)

今、男女別姓という議論がある。
「夫の姓を名乗りたくない、夫の墓に入りたくない」ということである。
じゃあ、妻の姓を名乗ればいいじゃないか、と思うのは私の両親がそうだったからである。
ところが、多くの男性は無理解で、そうはいかないのだという。
よって、民法改正が必要だと。
このようなくだらぬ議論に、私は、敢然とこう答えるものである。
「今さら、男女別姓をできるよう法改正などしてもダメでしょう。クサイものは元から、というではありませんか!常に、真実の回答はシンプルなものです。この際、結婚制度を廃止すれば、問題が根本から解決するじゃありませんか」と。
みよ、快刀乱麻を断つとは、このことである(笑)

ここで、恋愛と結婚の位置づけを2種類、シンプルに定義してみる。
1)恋愛の帰着駅=結婚という立場
2)恋愛と結婚は別物、という立場
それぞれの立場から「結婚廃止」について考えてみよう。

1)恋愛の帰着駅=結婚の場合
多く、戦後ニホンで見られた「恋愛のゴールが結婚よ」説といってもよい。
この場合、たぶん最高に幸せなのは、おそらく結婚式当日ではないのか。ゴールだから、最高である。
問題はその後である。
当然、恋愛には独特の高揚感もあるし、幸福感もある。結婚してから後、毎日そんなわけがない。
で。そのうち、パートナー以外の相手に心が動く。お決まりのパターンである。
「いいじゃん、いくつになっても、結婚してても恋をすれば」
そうなのだ。恋愛=人生で最高に楽しい価値あること、だとすれば、それでいいんである。
じゃあ、結婚制度がなければ、さらに「もっと、ずっと楽しい」はずではないか。
故に、この立場から「結婚制度廃止」は支持されるはずであろう。
もっとも、逆に「一生のうち30回くらいは結婚する」方法も論理的には成立するが、これは役所が大変になり、また税金の無駄遣いであるから却下する。

2)恋愛と結婚は別物、の場合
恋愛は楽しければいいのよ、見た目優先でやっぱりいいオトコのほうが楽しいじゃん、でも結婚はカネある奴じゃないとさぁ、「結婚と恋愛」?別だよ、当然だよね、の場合を考えてみる。
この場合の問題点は、結婚が「妥協の産物」であることだ。
別に、できる妥協ならするのが大人の智慧なので、妥協を否定するものではない。
しかし、結婚生活というものは、往々にして「話が違う」「こんなはずじゃ」がついてまわるものだ。
妥協して結婚したはずなのに、さらなる妥協を強いられることになるだろう。
「こんなことで、あたしの人生いいのかしらん?このまま、毎日ガマンして、おばあさんになるのなんてイヤぁぁぁっ!」と思うようになることは、まず間違いない。
で、ある日、「あなたっ、これにハンコを押してっ」になるのである。
別に、これはこれで、貴重な人生経験だという見方もできよう。しかし、大変な苦労である。
もしも「結婚制度」がなかったらどうであろう?このような、決して愉快とはいえぬ経験をせずとも済んだはずではないか?
もっと大きな目で見てみると「恋愛と結婚は別」という立場は「結婚制度があるから、やむなく対処のためにつくり出された方便」であって、結婚制度が廃止になれば雲散霧消するものでしかない。
本質的に「恋愛と結婚は別」とする場合に「恋愛>結婚」だからだ。

ついでにいえば、戦前の民法では「恋愛<結婚」であり、もっと簡単にいえば結婚は「家」のためにするもので、自由恋愛なんぞ親に勘当される覚悟が必要であった。家長に逆らう、ということはそういうことである。いまさら、そんな制度にはもどれまい。
もっとも、恋愛が弾圧されたから、文学が生まれたのであって、戦後の恋愛小説がポルノ小説化していき大衆文学と純文学の区別がなくなっていったのは、自由恋愛による。
ロミオとジュリエットが若いときからやりたい放題で、なんで文学になるものか。

かようなわけで、ハッキリ言えば、当人同士の幸福を考える限り、結婚制度は不要のものだと思われる。
実は、結婚は、当人同士のためにするものではないのではないか?(たとえば、子供のため)
しかしながら、戦後の民法にある「結婚は両性の合意にのみ基づく」にみられる個人主義の立場からすれば、結婚制度を維持していくことは難しいと思う。

ちなみに、子供ができても認知して養育費を払えばいいじゃん、の説もあるが。
そうなると、もはや一夫一婦制度の崩壊であろう。
それなら結婚制度を廃止したほうが早いというものである。

40過ぎまで独身だと、ひがみも理屈っぽくなるんである(笑)