Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

不運だから国を愛する

私は、10年ちょっと前、バブル崩壊で「いい気になっていた」のが仇になり、文字通り食うや食わずの生活を余儀なくされた。
そのとき、なんでこんな目に会うのだろうと思い、自分の不幸を思った。私ほど惨めな者も、なかなかこの世におるまいと思ったりした。

そのとき、故五味康佑氏のこんな文章を思い出した。五味氏は敗戦後、しばらくルンペン生活をしていたことで知られる剣豪作家である。
「金はない。パチンコの玉をはじいても、玉は思うようには転がってはくれない。今の自分に、思うとおりになるものは何もない。その自分に何ができるか考えた。それは自殺であった。何一つできない私であるが、自殺だけはできる。だから、神は自殺を禁じたのだろうと考えた」

宮沢賢治は「この世は修羅」だと言った。強い者は存在するだけで、既に弱い者を食うようになっている。いかに足掻いたといっても、この世の中はすべてそうなっている。それがこの世の実相であり、この世は「修羅」である。

考えてみた。私の苦悩は、すべて私が「生きていること」に端を発している。そもそも、この世に生まれてこなければ、苦しむこともない。

では、私は何で生きているのだろうか?私が「生きたい」と言ったのではない。気がついたら、この世に居たのである。どうしようもない。
仏教では縁というのであろうか?よくわからない。不幸の原因であると言うばかりである。

では。私が死んだらどうなるだろうか?まず「モノになる」と思った。しかし、それは間違いであった。私が死んだ場合、私は「日本人の死体」になるのである(笑)モノになるのは、その後であろう。

そのとき気付いた。死して尚、私は日本人だと。
そして、日本人であることは、私が選んだことではない。気がついたら日本人であった。私が日本人になるのに、私は何の判断も努力もしていない。無償(ただ)である。金銭の話ではなく、強弱の結果でもない。

それで忽然、私は悟ったのである。つまり「国を愛する」ということは、「生きてきて、生まれて良かった」ということと同義なのだ。私は、日本人であるのに、何の努力もしていない。ただそうである。それで「良かったね」ということは、生きていて「良かったね」と同じである。

国を愛する根拠に、国家の歴史生成過程から考え、それは無理なのではないかという意見もある。それは、私に言わせれば「アタマの中でだけ考えた理屈」である。この論理を推し進めたならば、自分が建国した国でなければ愛せぬ道理となるであろう。
しからば聞くが、あなたがある女性(または男性)を愛するのは、あなたがその女性(または男性)を「作った」故であろうか?
(西欧においては、神が祝福した愛を否定した場合に、このような「人間がつくるから愛」という思想があり、それは「あしながおじさん」に端的に表れる。ハッキリ言えば、幼い少女を自分好みにだんだん作っていく物語と指弾することができようと思う)
自分がつくったから愛する、そうでなくば愛せないというのは、単に自己愛の取引をしただけの結果である。

しかし、現実はそうではない。
我々は、気がついたらこの世に居る。日本人は、自分の意志で帰化した人を除いて、ただ単に気がついたら日本人である。
そして、この世は修羅である。強弱が支配する世である。

愛ということを言うなら、まず己が愛されねば不可能である。無からは無以外に生じない。「あなたは生まれてきてよかった、日本人でよかった」とまず言ってもらえない子どもが、どうして他人を愛せるようになるのか。ハッキリ申す、無理である。
まず無償の愛でなければ、人を救うことはできない。人の愛を感じなければ、ただ人は強者と振る舞う快感のみを逐う動物となるだろう。拝金主義の一連の「企業家」達をみよ。
しかし、私は言うが、私が日本人であるのに、彼らの金の力もなにも、ひとつも必要ではなかった。

根拠がある愛国心なぞ、そんなものは商取引と同じである。それが高いか安いか、算盤していればよかろう。
西欧のキリスト教は、だから神が無償の愛で人間を愛すると説いた。ゆえに、汝の隣人を愛せと。
日本人は、日本という国を思い浮かべるのに迷わない、自然に出来た国である。共和制のように人が作った国ではない。これは大変幸福なことである。

日本人だから日本を愛する。それだけのことである。それが可笑しいというのなら、生きていることがまず可笑しい道理である。
日本人だから日本を愛する。それで良いのである。

もちろん、諸外国の人が同様に彼の国を愛する理由も明白であろう。ごく当たり前のことを言っているだけなのだ。みんなが生きているので、それは特別なことではないのである。