Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

道義について

私は、あまり道義というものを信じていない。道義は、そのときどきによって変わるものだし、何かの都合によっても簡単に変わるものだからだ。歴史をちょっと学べば、そんなことはすぐわかる。

亀田選手の世界戦の判定勝利について、多くの疑問が寄せられていることはご存じの通りである。
そうしたら、なんとベネズエラ日本大使館に1000通もの「お詫びメール」が殺到したという。
内容は、なんと100%ベネズエラのランバエダ選手に「ランバエダ、ごめん」「本当の勝者はあなただった」「ランバエダこそサムライである」と賞賛、激励、謝罪するものばかりだったという。

このような反応は、世界の中で、誠に奇妙な文化をもった国だと言わなければならないだろう。たとえ、疑惑だろうがなんだろうが、とにかく勝てば、まあ黙って見逃すのが世界の主流であろうと思う。
こんなに謝りたがる民族も、なかなか他にあるまいよ(笑)

ランバエダ選手とは年内にも再戦があるというが、もしかすると、次回は日本人によるランバエダ応援団すら出現しかねぬ勢いである。

このように、公正でありたい、勝敗ではなくて相手を讃えようという精神は、いったいどこから生じているものだろうか。
非常に文学的なナイーブな考え方であり、その考え方で日本人は今まで狭い列島の中でそれなりにうまく暮らしてきたのだ、と実感した。そうでなければ、とても今日の日本はなかったであろうと思う。

そう考えれば、このような日本人がまだ沢山いるらしいことは、日本の国力の原点がまだ維持されているということかもしれない。

最近、ユダヤ人論を読んでいるのだが、私の理解が間違っていなければ、ユダヤ人の力とは、彼らの思考のフレームそのものであるらしいと気付いた。
日本人は、思考というよりも感情の世界、おそらく道義が、その力の源泉ではないかと思う。

あえて言ってしまうのだけど。
国際社会の厳しい現実を前にして、このような日本人の道義は、全く通用しないばかりか、かえってマイナスにつながる場合も多いと思われる。相手が、常に日本人のように考えてくれるわけではない。
だから、このような道義が、日本人同士であればともかく、外国に対して通用するかどうかは、別の問題だろうと思う。有り体にいって、たぶん、全然ダメなのではないかと心配になる。

だから、一方では、まだまだ道義ある日本人が多いことに希望を持ちつつ、もう一方では、なんとも心配する気持ちをもってしまう。私は日本的な道義が好きではあるけど、それはお互いが理解し合える同士であることが前提になってしまうだろうと思うのである。

道義について、私自身、まったく結論がついていないことだ。正直よくわからない。
私自身が、あまり道義のしっかり立った人間ではないからだろうねえ。。。