Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

オオカミ少女

オオカミに育てられた少年少女が発見されたのは、そう遠い昔の話ではない。
彼らが、その存在の発見以後、人間によって育てられるようになったことは当然だが、有名な話で、結局彼らは何年経ってもオオカミの生活のままで、言葉もほとんど覚えず、夜になれば遠吠えをしたという。
よく幼年教育の大切さを伝えるために引用される話であるが、実はもっと大事なことは、我々が事実だと思っていることは、あくまで「事実そのもの」ではないかもしれない、ということなのである。

オオカミ少女は、人間を見せられて「これは、あなたに似ているだろう?」と言っても、どうしても認めようとはしなかった。彼女は「自分はオオカミに似ている」と主張するのである。
私のように、人間の生育環境で人間の教育を受けた者にとっては、オオカミ少女は人間と同じように見える。少なくとも、オオカミ少女は「オオカミよりも、人間に似ている」のが「事実」だと思う。
しかし、オオカミ少女にとっては、真実は違っていた。彼女は、いかに考えても、自分がオオカミよりも人間に似ているという「事実」を受け入れることが出来なかったのである。

先日、郵便局に配達物を取りに行った。40過ぎの男やもめである私は、配達物の受け取りが平日出来ないので、夜に自ら郵便局に荷物を受け取りに行く。
その日は、週末であって、小さな窓口には職員が一人しかいない。結構行列が出来て、皆待たされているので少しイライラしている雰囲気があった。
そのうち、夫婦で来ていた夫(彼がベビーカーを押していた)が、こう子どもに話しかけた。
「ごめんねえ。コイズミのせいで、人も減らされちゃって、○○ちゃんも困るよねえ。もうちょっとガマンしてね。ひどいねえ」

私はその時思ったのである。
そもそも、小泉改革以前には、夜間休日の窓口業務自体を行っていなかったのであり、一人で今働いている職員は「おれは、今日の当番で運が悪い」と思っているのであり、それでダラダラ仕事をしているのであり、同じ要件で黒猫に行ってもこんなに待たされることはないのであり、それは民間であれば人が多い時間帯に増員するのが当然だけど彼らはそうではないのであり、それなのに公社が儲かっているなどという事態そのものが間違っているはずであるから、つまり、あんたの言うことは全て間違いである、と。

そのとき、つくづくと思ったのである。
このベビーカーを押す優しいパパは、いくら私がそのように説明をしても、私の意見を首肯することはないに違いない。同じものを見ても、人はこんなに違う見方をする生き物である。
話しても分からない、それは珍しいことじゃなくて「オオカミ少女」と同じなのだ。
そもそも、私たちが見ている風景そのものが、同じようには映っていないだろう。

養老氏が「話せばわかる、はない」と言って「バカの壁」を書いた。私の話がわからないからバカじゃないのである。そうではなくて、私とあなたは「話してもわからない」ということが「わからない」のがバカの壁なのだ、ということだ。

話せばわかる、なんてない。
たとえば、北朝鮮の核の問題についても、私にはどうして米国の責任だと考える人がこんなに多いのか、よく分からない。私の考えでは、責任と権限が対応していなければならないはずのものだが、たぶん、米国の責任だという人たちは、私よりも遙かに米国に対して大きな権限を認めているのであろう。
私は、米国にそんな権限があるわけがないので、責任もないという立場である。たぶん、そもそも議論にならぬであろうなぁ。

仕方がないねえ、人間は。そう思いながら、荷物を抱えて、トボトボと帰途についた。

よくSF小説では、究極の理想社会の揶揄として、人間の脳ニューロン同志をつなぎ合わせた人口生命体(社会そのもの?)が登場する。あれが理想ではなく、やはり醜悪だと思う。
そうだとすれば、我々は、お互いに分かり合えないということを引き受けて生きていくしかないのである。一人生まれて一人死ぬ。死んだというときは、常に誰かの死であって、私の死ではない。
そうやって生きていく。
思えば、なかなか人生もつらいものだと思うのである。