Single40'S diary

「40過ぎて独身で」の作者が、あっというまに50代を迎えたブログ

かたき討ち 復讐の作法

「かたき討ち 復讐の作法」氏家幹人

敵討ち、は日本人には大変人気があるテーマである。そんな「かたき討ち」について、蘊蓄を集めた本。こりゃ、おもしろいのであります。

まずは、著者は「うわなり討ち」の話から入る。「うわなり討ち」は有名でして、主に室町期、離縁された元妻が後妻をぶちのめす話である。(殺しはしません)
まずは、「何月何日に、うわなり討ちに参る」と使者が来る。その際には、人数だとか獲物だとか、(箒が何丁、鍬が何丁と)具体的に情報が提供されるわけです。で、予告通りやってきます。もちろん、後妻も応戦するわけで(ただし、かえり討ちにしてはいけない)家中しっちゃかめっちゃかに破壊されるわけである。合法的な復讐、「制限枠のある騒動」ですなぁ。
この制度、なんだか微笑ましいぞ。

意外に多いのが、衆道(男色)のもつれによる復讐。あまり今では考えられないケースのような気がするが、昔はポピュラーだったらしい。このあたりの感覚は、ちょっと理解できないわけである。

一方「女敵討ち」は今でもありそうな話で、不義密通を働いた姦夫姦婦をバッサリ。ただし、姦婦のほうは夫が許すといえば、それはそれで許されるケースもあったようである。ただ、この「女敵討ち」、実は江戸幕府は全然認めていなくて、多くの藩で慣習的に容認されていたというのが実情らしい。

敵討ちの反対語、つまり、つけ狙われるほうが「敵持ち」。で、敵持ちを庇護するのが、武士の作法であったらしい。命を狙われて、助けを求めて屋敷に駆け込んでくるのを「駆け込み」と呼び、これを見殺しにすると大変な不名誉であったようだ。そういえば、関ヶ原の合戦の前に、七将に命を狙われた石田三成が家康邸に駆け込んだ話があった。あれ、家康が「今殺しては、天下を取れぬ」として生かしたことになっているが(司馬遼太郎関ヶ原)実は「殺してしまったら、家康の武士の評判はがた落ち、誰も言うことを聞かなくなるので、やむなく」が真実かもしれませんぞ。

評価は☆☆。たいへんおもしろい本である。

もっともらしく言われることに「敵討ちが許されたのは武士だけ」なんて話があるが、なんのなんの、実際は庶民だってあったようである。殿様によっては、見事敵を討った庶民を武士に取り立てるケースもあり、多くは敵討ちは無罪放免になっていたようだ。
ところが、当の武士は、江戸時代も中期以降になると。敵討ちも減るし「駆け込み」をいかに断るかなどとアタマを悩ませることになる。「ただいま、主人があいにく来客中で。」「あなたを追っている方の名前は?(名を聞いてから)お、それは当方の知り合い。残念、お力になれません」などと見え見えの嘘をつくわけである。大変な苦労であるなぁ(苦笑)
一方、庶民の方はますます「敵討ち」に熱狂し、見物客は鈴なり、見事敵を討とうものならヤンヤの喝采であった。江戸時代の「花は桜木、人は武士」の思いこみは甚だしく、武士達自身が苦労していたことが伺いしれる。実に奇妙な「支配者」と「被支配者」の関係ではないか。

今でも、「国家権力は何をするかわからん悪である」という主張は根強いわけであるが、その中でも特に警察力なり刑罰なりというものは、もっとも危険だとされるものである。
しからば、いっそ国家権力に警察力や司法の力を与えるのはやめてしまえばいいじゃないか?と思うのであるが、なぜか、国家の悪を唱える方々も、そこまでは踏み込まないようだ。不徹底である(笑)
で、そのような「警察力なき世の中」になったら、当然ながら犯罪行為に対しては「自力救済」するほかない。つまり、「仇討ち」を合法化するしかないではないか。
江戸時代のシステムは、かなりこの考え方に近い。それでも、ちゃあんと治安を維持することができたわけである。
一般的な犯罪捜査で下手人が捕まったときに、遺族に復讐の刃を振るわせるような処置も行っている。このような仕組みは、明治になると廃止されてしまうのだ。犯罪を罰するのが「当人の代わり」という考えが廃れて、国家の治安維持が重視されるようになるためである。

しかし、この際「お上に届け出れば仇討ち容認」一考に値すると思うのですな。だって、より「民主主義」的な気がするんだもん。