Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

ためらいの倫理学

「ためらいの倫理学内田樹

最近、人気爆発中の(笑)内田氏の比較的初期の本。ネットで発表した文章を集めたものだという。
なるほど、そういえば、「構えた」文章が少ないというか、ある意味「ノーガード戦法」な本だと思う。
お化粧が少ない分、内田氏の思想がよくわかる。

本書のなかで内田氏が繰り返し言っているのは「自己疑問の少ない思想は信用できない」ということ。
それと「自己審問していることを免罪符にして、他人を審問する思想は、もっと信用できない」ということである。
この2点目が、すごく構造主義的(自分の理解が間違っていたらすいません)だと思う。

思想の中で、「この思想が理解できない奴はみんな間違っている」という思想がある。「なにがなんでも自分が正しい」という思想で、マルクス主義がその典型だ。
マルクス主義では、プロレタリアートでないから間違うということになっている。スターリンプロレタリアートじゃなかった、毛沢東プロレタリアートじゃなかったというわけで「スターリン主義」とか「毛沢東主義」などと総括されてしまうのだ。
(お気づきの方はいらっしゃるだろうが、これは一種の循環論法になっているので、無矛盾に成立するように見える)
内田氏は、このマルクス主義の論法の「プロレタリアート」を「女」に換骨奪胎したのがフェミニズムであると指摘する。よって、フェミニズムの立場では、つまり「男」は「女」でないので、「女」がいかに収奪されているかが分からないと説明するのである。この場合も、すべての反論は「あなたが男だから」となり、また女の場合は「男の文化に取りこまれた女だから」わからないのだ、と説明する。
これは、論争においては無敗理論なのである。この「無敗理論」に内田氏は疑問をぶつける。絶対に論争に負けない議論は、正しい議論なのだろうか?

さらに、一歩踏み込んで「審問の哲学」に斬り込む。
サルトルカミュの論争、あるいは国内においては戦争責任をめぐる高橋哲哉加藤典洋の論争を取り上げる。
サルトルも、高橋哲哉も、まず「自分への審問」を徹底的に行ったことで、論争相手に対する優越を手に入れる。「だから、私はあなたを追求する権利がある」というわけだ。
その上で「あなたは、虐げられた人民の痛みが分かっていないのだ」「2000万人アジア人の痛みを共有できていない」というのが基本的身振りとなる。
論争においては、これは現在、最強の語法とされている。

しかし、内田氏は、これを批判する。
そもそも、他人を審問する権利が、自分に対する審問を厳しく行ったからできるという「知的報酬」としての解釈自体が、ずいぶん疑わしい(一種の知的傲慢)ではないか。
そもそも、他人の痛みが分かろう、そう考えたきっかけは「愛」だろう、コミュニケーションの動機だろう、なのに「審問」だけが目立つ。他人を断罪のみする愛、または自分の言い分を認めるものだけが正しいという「愛」は、果たして「愛」と言えるのか。

評価は☆☆。
ずいぶんスリリングな本である。「うわ」と思うほど、過剰な語りがあるけど、しかし、こういう率直な語りでなければ、届かない内容なんだろうな、と思う。
もっと「ちゃんと」書いてあれば、たぶん自分には分からなかったのではないか、という自信があるな(苦笑)

面白いのは、内田氏の最近の風潮に対する見方である。「俺様主義」というか「ミーイズム」というか。
これを、内田氏は、そもそも哲学者や文学者が「他者」をひっぱってくる語法を使いすぎた、その反動だと見る。
たとえば、あなたと私がいて、そのほかに「他者」がいる。論争に、必ずその「他者」をひっぱってくる。そして「私」は「他者」の痛みがわかる、私は反省した、あなたはしていない、あなたは「他者」の痛みがわからないからそうなのだ、と自分の援軍として使ってしまう。
これを繰り返された「あなた」は、ついに「知らん」と言い出すのだ。
だって、いくら論争を繰り返したって、「あなた」が「他者」に入れて貰える可能性は金輪際ゼロだからだ。「あなた」が、論争に負ける以外の道はない。
こんな語法を繰り返されてきたある日、ついに「あなた」は言う。
「はいはい、どうせ私には他者のことなんかわかりませんね。私は私、あなたはあなた。そうじゃないですか。その何が悪いんです?ほっといてください。」
「あなた」が、もしも論争に負けたくないと思うなら、そもそもコミュニケーションを拒否するほかない。

たぶん、この文章を書いている私だって、そういう「あなた」の一人なのである。