Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

「負けた教」の信者達

「負けた教」の信者達 斉藤環

この本でいう「負けた教」の信者とは、世に言うニートや引きこもりのことである。
著者の斉藤氏は、「負けた教」の信者さん達には人気のある人らしいので、ちょっと読んでみた。

で、私には、よく分からなかったのである。著者自身も、彼らひきこもりやニート達が持っている「負けた」という感覚を、ハッキリ説明できているわけじゃない。
一つの仮説として、コミュニケーション・スキルの競争ではないか、という話が出てきて、そうかもしれないとは思った。
だけど、何が原因だとか、じゃあどうするとか、そういう話はいっさいない。
ただ、このままでは、41万人とも言われるニートやひきこもりの高齢化問題が起こってくるだろう、というばかりである。

わからないことは、わからないと言っているのだから、それが良いということなんだろうかと思う。
けど、そもそも書物を出すのは、それでもなにがしか分かった場合であるだろう。そうでなければ、資源の無駄である(笑)。
えんえんと「分からない」を聞かされても、やっぱり分かりませんと応えるほかない。
分かることが目的ではないのだ、と言われたら、はあそうですか、というだけ。ただ、それだけのこと。

評価はナシ。本当に分からなかったので。

40過ぎの右翼と後ろ指を指される人間としては、ニートやひきこもりは、やっぱり私が考えるべきことではないと思う。
その理由をちょっと書いてみると。

私自身、十分にニートやひきこもりの要素がある。対人恐怖なので、やっぱり「赤の他人」と「親しい人」は平気で、その中間の知人に会うのが苦手だ。
だからもちろん、恋愛においても負け組なのである。何度もいうけど「結婚しない」のでなく「できない」ので、それは能力的な問題なのだ。
たとえば、ブログは書いてもSNSは苦手だ。ブログは書き飛ばせばいいけど、SNSは相手とやりとりしなければならん。ムリである。
しかし、その私は、なんとかかんとか職について、とりあえず納税をし(独身だから高い!)自分のメシを食っている。
なぜか?簡単である。親がビンボーだからである(断言)。
ニートであれひきこもりであれ、働かないで生きていけるのだから、そりゃ素晴らしいことじゃないか。サヨク的に表現するならば「誰からも搾取されていない」わけである。
文句をつける理由がない(事実、左派はニートやひきこもりを非常に肯定する)。そんないいことなら、「救い出す」必要などない。
心ゆくまでつづけていけばいいのである。

さて、そうなると、本書にあるように、やがて彼らも高齢化する。彼らの親はもっと高齢化する。じゃあ、どうするのだ?となる。
しかしながら、忘れては困るのは、こちらも高齢化するということである。高齢化して働けなくなるのは、同じことである。
ただ、こちらは貧しかったから、なんとか老後はニートやひきこもり生活をできないものか、と考えている。
人生において、すでに、その生活を満喫したニート、ひきこもりの「勝ち」なのである。
そういう意味で、人生の「敗者」たる私が、「勝者」であるニートやひきこもりの心配をしなければいけない理由がない。
思いやりは、勝者が敗者に対してもつべきものであると考える。

つまり、私自身が「負けた教」の信者なのである。