Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

日本は何故地球の裏側まで援助するのか

「日本は何故地球の裏側まで援助するのか」草野厚

一般にODA「経済支援」「国際援助」については、よく知られていないというのが本当のところだと思う。
本書に述べられているように、なにぶん外国のことであって情報量が少ない上に、マスコミ報道は必ず「疑惑」「利権」に関するものしかないからだ。(著者曰く、マスコミが権力の監視役である以上はやむを得ないが)

ODAについて、大きく転換したのが小泉内閣であった。小泉首相は、主に以下の3点を問題提起した。
1)日本国民自体が、かつてと異なって経済的に苦況に陥るものが増える中において、なお外国に対する支援を優先して行う論理があるだろうか?
2)支援対象先の中には、中国のように「日本から支援を受けつつ、他国に支援を行う」国家も含まれるが、このようなケースをどう考えたらいいだろうか?
3)日本の支援は、実際に成果(つまり国益)をあげてきたと言えるだろうか?
これらの問題意識に基づき、それまでの方針を転換し「ODA削減」に方向転換したと言える。

この疑問に回答しようとしたのが本書であろう。
ODAについて、著者は明確に「これ以上の削減はすべきでない」と主張し、以下の4点を理由にあげる。
1)人道的見地からして、遙かに窮乏した地域は地球上にあまた存在するのであって、これらの国々を見捨てるわけにいかない。
2)日本は、資源輸入国であり、ODA供与先が資源輸出国である場合が多く、資源の安定確保に貢献する。これは、シーレーン確保に関しても同様で、治安レベルが向上することは我が国の資源確保に大きな要因である。
3)日本が自由貿易体制である以上、発展途上国が発展することは新たな市場の創造につながる行為であり、歓迎すべきことである。
4)日本の国際社会に関する発言力の確保という視点から見て、特に憲法上の制約から軍事力プレゼンスを発揮できない日本にとって、ODAは貴重な外交手段である。
そして、以上の1点1点は確かに決定的なものではないかもしれないが、しかし総合すれば、これは十分な理由となるものではないか、と述べる。

また、中国に関しては、中国のODAは「OECD加盟国の経済支援の枠組みに入っていないので、ODAとは言わない」という学問的定義(これ自体は八股文みたいな解釈で笑える)のあと、日本もかつて世銀の支援を受けつつ、他国に支援を行っていたことから、深入りした論評を避けている。
もっとも、当時の日本の経済支援自体が本書にある通り「戦後補償的性格」のものであったが、中国の場合はどんな補償にあたるのかは言及していない。戦争が多すぎて分からないのかもしれないけど(笑)

実を言うと、私は、全体としてこの著者の意見に大いに賛同しつつも、小泉内閣が提示した疑問に対する回答にはなっていないものと考える。

まず、基本的に日本国民の税によって行われるODAについて、小泉内閣の提示した疑問による
「もしも資金が日本国民の税金ということを重くふまえるのであれば、他国の窮乏した者よりも、まず日本人の窮乏したものを救うのが日本政府の優先順ではないか」という疑問である。
これに対して「外国には、もっと悲惨な状況の者がたくさんいるのです」という回答は「世界政府」であれば有効だが「日本政府として、日本人の税金を使うべき優先順」ということに対しては不十分であろう。
最大の難点は、小泉内閣が問題としたのは、ODAの意義ではなく、その費用対効果である、ということである。
おそらく、意義についてであれば、両者の意見にそう大きな隔たりはないものと考える。

たとえば、日本は確かに多数の途上国から食料を輸入している。だから、これら途上国に対する支援は欠かせないという。しかし、日本の最大の食料輸入国は米国である。パイナップルやタコよりも、まず小麦と大豆ではないか。
従って「もっとも支援をすべきは米国である」と主張するのであれば、それは理屈が通る。そこに触れないのは、実に解せない。

また、ODAの成果として、たとえばモンゴルが国連非常任理事国の枠を日本に譲ってくれたことをあげるが、それによって何か日本が得をしただろうか?
常任理事国入りの選挙においては、アフリカ勢が反対に回ってしまったわけだが、これは中国の意向によるものである。本書も認めている通りである。中国の意向によってどうとでもなるのであれば、血税ODAに投じる価値がない。
すると、そもそも日本の外交とは、いったいいかなる作業を行っているのであろうか(笑)。
そんな予算をやめて、そのぶん米国の機嫌をとったほうが遙かにマシじゃないか、という議論は、費用対効果の点で考慮に値する話である。

なお、国連の平和維持活動への参加問題は、集団的自衛権の問題とは切り離して考えるべきだと提言する。国連の平和維持活動は、国家間の紛争解決手段としての戦争とは異なるのだから9条には違反しないという見解である。

評価は☆。なかなか、考えさせてくれる本である。

私は思うのだが、いっそODAをやめて、その分を税金を安くし、代わりに資源を値上げしても一緒じゃないか、むしろ有利にならないだろうか。
途上国は、資源を高く売りたいのである。経済支援で金を出し、資源を優遇して売ってもらうというのは二度手間で非効率である。
他国よりも1円でも高く買います、といえば良い。大いに喜んでもらえるだろう。
その分、国民の税金を安くすれば良い。外務省の役人もいなくなるし、ODAを扱う商社も不要である。どうして中国はI藤忠でフィリピンはM紅なのか、どうして開園したワニ園にワニが一匹もいないのか、といったばかばかしい問題もなくなるだろう。

私の見解の基本線は、そもそもグローバリズムによって政府の果たす役割は小さくなっていく、というものである。
政府というものの問題点は、金を使うことで、その使い方が非情に非効率だということだ。費用対効果をきちんと計算しないのだから仕方がない。
世界は、これからどんどん可視化していく(養老氏いわく脳化)のだから、人間の頭脳で考えたときに予測ができることは発展して、そうでないものは小さくなっていく。
ODAも、当然それにつれて縮小していくはずだ。それは、時代の流れであって、それに逆らう者はやっぱり消えていくのだと思うのだけどなあ。