Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

美人の変化と時代の変化

平安時代小野小町が現代によみがえっても、誰も美人とは思わないのではないだろうか。
美人の基準は、世につれて変わるものである。

しかし、たった一つ、いつでも言える真実がある。(フェミニストなら「女がいつも抑圧されていた」というところだろうね)
それは、「美人は必ず少数派」であるということだ。

平安時代は下ぶくれが美人、眉毛と目の距離が遠ければ美人、目は細いほうがいい。
江戸時代は瓜実顔だけど、目はやはり細いほうがいい。
現代の美人は、目が大きく、あごが細いほうがいい。

もしも、美人が「男の本能」であれば、たった数百年の間に本能が変わってしまったことになる。そんなわけはないだろう。
だからこそ「文化による刷り込み」だなんて話になるのだが、それじゃあ「刷り込み」が変化する理由が分からないね。

どうも、思うに、その時代で「ある程度少数派で、美人標準を確立できるだけの数はいること」が条件ではないか、と思うのだ。

たとえ話をする。
もしも、今我々が、いわゆる今の「平凡な顔」を「美人」だと思うようになったとする。美人の基準は変化するのだから、可能性としてはあってもいいはずだ。
そうすると、ここにもあそこにも、それこそ美人だらけ、という状況となる。こりゃあ、幸福な事態ではないか?みんな、ハッピーなはずなのに、なぜそうならないのか?ということである。

逆に、すごく少ないケースを考える。
極端だけど、たとえば「目が3つ、耳も3つ」が美人の条件だとしよう。すると、先天的にこのような特徴をもって生まれる人は、まあ大変少数派であるわけだ。(これが美人の条件であるから、「障害」とは呼べない)
つまり、美人に遭遇する確率は、それこそ天文学的に小さいことになる。これはこれで、そのほかの人はみんな平凡であるわけで、たいへん平等な状態であるはずだが、なぜかそういうふうにはならない。

つまり、美人の条件を、たいへん即物的に考えると
「まあまあ少ない部類の顔」で、しかし「周囲に全然存在しないほどではなくて、たまには見かける」程度であることがポイントだと気づくと思う。

なぜ、そうなのか?
おそらく、それはオス(男)に競争をさせるためであろうと思う。

もしも、そこら中に美人がいればどうだろうか?つきあう女性はすべて美人、例外のほうが難しいよ、てな具合になる。
そうなったときに、オスは、努力をすると思うだろうか?金儲けだけじゃなく、歌を歌ったり、芸術に精進したり、名誉を求めたり。ま、全部「エーカゲン」になると思うな。
女性あっての男。などと、男の秘密を暴露してしまうのだが(笑)

逆に、美人が天文学的に存在しない、とするとどうであろう?
それこそビル・ゲイツのようにカネを持ち、イチロー並に運動神経があって、デンゼル・ワシントン並のハンサムじゃなきゃ美人を射止められないとしたら、、、まあ、あきらめますな、たいがい。歯が立つわけがないんだからさ(笑)。

つまり、美人の条件というのは「なんとか頑張れば。手が届くかも」ぐらいにないといけない。そうじゃないと競争にならないから、であろうと。

そこを考えていくと、恋愛資本主義の正体が見えてくると思うのですな。
つまり、恋愛資本主義とは、恋愛によって経済活動を活発にすること(男にカネを使わせること)が本質じゃなくて。
「自由恋愛」によって、競争状態に男をおくこと、これが本質だろう。
「誰でも頑張れば、恋愛はできる」の「恋愛」を「お金持ち」に変えてみると、、、ほら、自由主義経済の中の、根本的な理念「自由競争」の肯定にしかならない。
であるから、自由主義経済も「頑張れば成功できる」というセントラルドグマがないと、システムそのものが維持できないのである。
もしも、皆がそう思わなくなったら、、、、きっと「美人」の定義が変わるだろうね。「頑張れば、、、」のところぐらいに、定義が変わる。それが、新しい時代、パラダイムの変化になると思う。

ま、以前にも書いたけど、そもそも「自由恋愛」を肯定しておいて、経済だけ「結果の平等も大事だ」とほざく奴は、おのれの思想を理解していないのではないかな。恋愛における「結果の平等」が明らかになれば、それは必ず経済の平等化と通じているはずである。

私としては、おそらく「美人」の基準が変わることのほうが、より早く起こるだろうと思っているのだけどね。