Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

東京裁判

東京裁判」日暮吉延。

東京裁判については、実は卒論で取り上げたときに児島襄の本を読んだ。学生時代の私は、基本的に実定法思想をとっていたので、東京裁判に関しては「法律論的には異議あり、されど有効」という見解を出した。
おそらく、実定法的な立場で考える限り、もっとも「ありふれた結論」だろうな(苦笑)。

どちらかといえば、児島本は批判的スタンスが大きいのだが、本書は「90年代以降の新たな研究成果も踏まえて」「政治論争ではなく、客観中立の立場で記述」を目指した、とある。
その目標は、十分に達成されているように思える。正直、素晴らしい出来映えである。

まず、東京裁判において、被告側の弁護団の弁護方針がまったく統一されていなかった。鵜澤団長、清瀬弁護人をはじめとする「国家弁護」と、主に英米法学者、米国人弁護士を中心とする「個人弁護」で対立し、法定内で互いの批判をする有様で、被告達自身から文句がつくほどであった。
ただし、有名な清瀬弁護人の「管轄権動議」は、かなり判事を苦しませ、一定の成果を得たと言える。
しかしながら、このために、後年の東京裁判批判が「管轄権」問題のみを論じられるという結果を招いた。管轄権の問題は、東京裁判の問題点の一つに過ぎない。

検事団は、東京裁判ニュルンベルク裁判と同じ論理で裁くという方針で望んだ。そうしなければ、相手国毎に裁判の論理がころころと変わってしまい「勝者による敗者への復讐」だという批判を免れなくなる。
そのため「共同謀議」を中心とするA級B級C級の訴追を行った。
ところが、日本はナチスのような中心がなく、ユダヤ人虐殺のような民族浄化の意思も持たなかった。そのために、「共同謀議」の訴追は「不作為責任」を問うことになった。
この点が、ニュルンベルク裁判と大きく異なる点である。
有名な広田弘毅の死刑であるが、つまり広田が「戦争を止められる立場にあったのに止めなかった」という「不作為」が罪状とされている。東京裁判以前には、この「不作為責任」は追求されたことがない。
広田の死刑には、未だに「おかしい」という批判が多いのであるが、この「不作為責任」を問うというロジックを掲げる限り広田は重罪を免れないのである。
この「ムリを重ねた」訴追には、検事の中にもイヤになって帰国してしまう人が出るくらいであった。

判事であるが、どの国が判事を出すかは、各国のメンツがかかっていた。だから、当時は独立国でないインドやフィリピンが判事を出したわけである。ところが、その後の職責に関しては、それぞれの判事が全く独自に行った。
インドのパル博士は日本無罪論で有名であるが、それはインドの立場を意味しない。あくまでもパル判事個人の判断である。
さらに、実はオランダのレーリンクも無罪論、団長の豪州ウェッブも無罪派であった。実は、フランスも否定派だった。
イギリスのパトリックは、この状況に憤る。このまま、もしも日本無罪などという判決が出てしまえば、連合国のメンツは丸つぶれとなる。そこで、パトリックは英国政府と協議の上、多数派工作を行ったのである。
インドのパルは、まったく工作が通じなかったが、フランスは妥協、オランダのレーリンクも豪のウェッブも「意見書」を出すが判決には同意となった。これで、ようやく有罪判決を出すことができたのである。

しかしながら、判決から見ると罪がA級「平和に対する罪」の不作為だけでは死刑にならず、残虐行為(B級)が実質的に必要だったこと、中でも東条は例外で「天皇訴追を防ぐ」ために取引があったことも指摘されている。

やがて冷戦が始まると、東西陣営は対日工作のために、戦犯の早期釈放に動くようになる。
このため、巣鴨で服役中の刑期がみな短縮される結果となり、またソ連で強制収容中の人、中国で再教育が済んだ人(中帰連)などが続々と帰国することになった。

つまり、東京裁判は、その訴追も判決も「政治的」であったし、さらにその服役も「政治的」判断に基づくものであったと言える。東京裁判は、裁判の形式をまとった国際政治そのものだったとも言えるだろう。

評価は☆☆☆。あの長大な裁判を、新書版400ページで概観できるようにしたことが驚異である。
おそらく、東京裁判の「標準」になるのではないか。
左右いずれの立場にも偏らぬ内容として、座右におくべき書であると断言する。

面白いのは、有名な東条英機の宣誓供述が、当時GHQの命令で発禁処分になっていること。にも関わらず、新聞では概要が掲載され、その他の戦犯の右顧左眄ぶりに呆れかえっていた民衆が、東条の主張に対して「よく言った」と喝采を送ったこと。(朝日新聞ですら、である)
しかし、だからといって、東京裁判を否定するとか東条が無罪だとは考えなかったらしいこと、も指摘されている。
また、A級戦犯の釈放に関しては、当時の国民が熱心にこれを推進したこと。朝日新聞も「今更戦犯でもあるまい」と書いている。
靖国への合祀は、総代会の発議によって行われたのであるが、合祀自体が執り行われたのは「すべての戦犯の刑期が終了した後」であったことも公平に指摘してある。

著者の指摘する「東京裁判のもくろみは、政治と文学を日本国民に混同させることにあった」という点は特筆に値する。
その当時は、なかなかうまく行かずに苦労したこの「もくろみ」は、後年になってじわじわと効いてきた。その点も、後書きで指摘してある。

当時の日本人大衆は、なぜ政治と文学の混同という陥穽に落ちなかったのか?そして、むしろ現代の日本人大衆が、どうしてこの陥穽にやすやすと落ちるようになってしまったのか。
私は、つまり「豊かになった」ということは、そういうことだと思っている。日本がこれから窮乏化していけば、おのずと政治と文学は、ふたたび峻別されていくことだろうと思う。
そのときでも「日本」という政治が残っていればの話であるけれども。