Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

秋葉原事件によせて 「格差社会というのなら」再掲

秋葉原事件の犯人の書き込みをみると、すべては明白ではないか。
彼は、なんども「彼女がいない」「もてないから負け」「不細工だから」だと、ちゃんと書いている。
しかし、マスコミは、彼が「派遣会社の社員だったから」人殺しに及んだ、というのである。
彼自身は、いったん運送会社の正社員として勤務し、態度も良好だったのに、ある日突然辞職している。彼は、正社員になりたくてなれなかったわけではないのだ。

殺人犯の言い分を聞かないのなら、話はわかるが、そうではなくて、まるきり本人の話を聞いていないのだ。本人の話じゃなくて、自分が言いたいこと(解釈)だけを垂れ流す。
彼は、きっと警察で、何度も訴えているだろう。「女にもてないから、人を殺しました」しかし、その彼の言い分は、きっと聞かれやしない。
あれだけの大事件を起こしたのに、結局、あの加藤なる容疑者の言い分を、誰もまともに取り上げようとしないのだ。

人権家という人々が、なぜか殺された人のことは少しも語らず、殺した犯人のことばかりを一生懸命考える奇妙な世の中で、彼の書き残したサイトの言葉も、また誰もそのまま読もうともしない。
この国が駄目なのは、すべて知識人に問題がある。現実に向き合おうとせず、ただ自分の解釈ばかりを垂れ流す、そういう怠惰がこの国を覆っているからだ、と私は糾弾する。

この事件によせて、私自身がかつて書いた記事を、再掲させていただきたい。

タイトルは「格差社会というのなら」である。




格差社会」なる言葉が流行中である。小泉改革の5年の間に、貧富の差が大きく開いてしまったという批判的な論調でよく使われる言葉である。

私は、この議論の尻馬に乗って言うのである。つまり、格差を言うのなら、なぜ金銭ばかりを人は問題にするのであろうか?
「もてる、もてない」「結婚できる、できない」のほうが、遙かに大きな格差であるぞ。

そもそも、恋愛と申すのは「自由競争の原理」であろう。ある人を好きになるのに、みんなが好きになると競争が起きるので、みんな仲良くといった話は聞いたことがない(笑)。

昔は、結婚においても「見合い結婚」が主流であったようだ。親戚だの世話好きのおばさんだの会社の上司だの、まあ今で言う「外野」がよってたかって、適当な人物をめあわせたものらしい。で、なんとなく、多くの日本国民が結婚できていたわけであるよ。

しかるに、戦後「自由主義」が入ってきて、結婚も「お見合い」は封建的であるからいけない、「幸福な結婚」は「自由恋愛」から生じなければならない、新憲法は「両性の合意にのみ」なのだ、親だの親戚だのが合意するのはいかん、という批判がなされた。
かくして「恋愛資本主義」の隆盛を迎えることになったのではないかね?

今日、多くの「結婚できない」男女が生じたのは、ほかならぬ。自由主義競争の結果「格差社会」が出現したからである。「負け組」なる言葉は、その真実を言い当てたものである。勝ち負けは「恋愛市場」において「自由競争」に敗北したと言っているのではないかね?

40過ぎの独身男としてもの申す。
格差社会と批判するなら、金銭よりも、恋愛におけるそれのほうが、その格差は大きいぞ。生まれつき眉目秀麗、頭脳明晰な奴もいれば、言いたくはないが、その正反対もいるのである。その「差」を、いかんともしがたいではないか。
「努力すればできる」?などと「戯言」をぬかすのなら、その同じ論理を、なぜ金銭に適用しないのかね?
いいかな、そういうことに考えが及ばぬのは、しょせんそいつらが「恵まれた奴ら」だからである。
そのくせ、偉そうに批判をするのだ。

私は、私怨をこめて、はっきり申す。
「恋愛」における「自由競争」は黙認するくせに、金銭の問題だけを取り上げる「批判勢力」なんて、私はこれっぽちも信じません。