Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

靖国問題(5)

(靖国問題 高橋哲哉 続き)

私「さて、老師。いよいよ第5章の『国立国家追悼施設の問題』です。ここで、著者は、国立国家追悼施設を新たにつくることは、アジアに対する戦争責任を果たす事にもならないし『第二の靖国』となる可能性も大いにあることを指摘した上で、ハッキリ反対意見を表明しています」
老「うむ。議論の前提が正しいか間違っているか、その問題は措くとして、論理の展開自体はまったく異論の余地がないの。その通り、じゃ。本書の中では、まさに白眉で、思わず唸る出来映えじゃのう」
私「あらら。では、この章には、特に問題とすべき点は見あたらない、ということですか?」
老「見あたらない、どころか、まことに歯切れよく、明晰な論理じゃろうが。最後の指摘『靖国問題の本質は政治問題』というところまで含めて、正しい論理展開のお手本と言うても過言ではないわい」
私「著者は、そもそも追悼施設自体、国が再び戦争に向かう回路を断ち切ること、すなわち『非武装』を実現しない限り、常に『第2の靖国化』の危険をはらむ、と云っています」
老「もっともな指摘じゃ。ついでに云えば『戦う国家=祀る国家』であるという定義も秀逸じゃのう!」
私「確かに、戦うだけ戦って、あとは知らんでは国民も納得できませんし、国は立ち行かなくなりますもんね」
老「そうじゃ。すると、そもそも戦わぬ以外に、この議論の回答はないことになるわの」
私「高橋の非戦思想は、徹底していて、同じような顕彰施設が中国にも朝鮮にもある、防衛戦争と侵略戦争の性格の違いはあれど、国が戦争をするための施設であるという批判は免れないと指摘します」
老「もしも、仮に『防衛戦争ならば顕彰して良い』となればどうなるであろう?そもそも、近代においては全ての戦争が『防衛戦争』であると説明されるものじゃ。そこにまで踏み込んだのは、高橋が本物だからじゃ」

私「ずいぶん、最終章で持ち上げますね(笑)」
老「まあな(笑)しかし、自らの論理に忠実であるということは、意外に難しいものでのう。突き詰めると、いささか非現実的な『非武装中立』まで主張せざるを得なくなっておる」
私「これですと、さすがの『参拝自粛派』であっても、いささか引く人も出るのではないですか」
老「であろうな。さらに云えば、非武装ということは、仮に外国の侵略を受けたら無抵抗でやられても仕方ない、という決意も含まれておるからの。重大じゃの(笑)」
私「無抵抗でやられるのでは、なんのために戦争反対したんだか(笑)」
老「本末転倒じゃわな(笑)クジャクの羽のようじゃの」
私「クジャクの羽って、どういうことでしょうか」
老「クジャクのオスは、大きく立派な羽をもっているほどメスにもてるのじゃ。よって、どんどん羽を大きく進化させた。ところが、羽が大きくなりすぎると、結局、他の動物に襲われたときに思うように逃げられず、餌食になってしまう。つまり、当初の目的であった『子孫を残す』ことができなくなってしまうのじゃ」
私「愚かですなあ」
老「まあな。しかし、それでも大きな羽を望んでしまうバカなクジャクは、それ故に美しいわけでもあるわの。愚行の責任は愚行自体の結果でおのずと返ってくるのじゃから、愚行をする自由もあるのではないかのう」

私「とりあえず『非武装中立論』が愚行かどうかはさておいて、民主主義国家はそもそも『戦ってはいけない』ものでしょうか」
老「回答は決まっておる。『戦わずにすめば、それにこしたことはない』しかないじゃろ。よほどの戦争マニアは別にして、じゃが(笑)」
私「そりゃそうですね。好きこのんで、わざわざ命を的の商売なんざ、普通はごめんです」
老「じゃわの。とすると、戦いはいつも好ましくない状況で起こり、何の因果かそれに赴く国民がいる、ということになるわの。ま、赴かされる、と言うても同じじゃが、民主国家の場合は『行け』と命令するのも自分達じゃからのう」
私「そこを、先の戦争を痛切に反省して、やらないと決意すると」
老「で、日本より遙かに『反省』したはずのドイツは、コソボ紛争に際して武力行使に踏み切ったが、つい最近はアフガンに増派したわな。『なにを西欧でヌクヌクとうまい汁吸ってるんだ、ちっとは働け』と言われては仕方がなかったのじゃろうな」
私「日本だって、同じ状況は考えられます」
老「そこで、近隣諸国の登場じゃ。中韓が『重大な懸念』を表明してくれれば、ことは丸く収まるわの。日本の政治家だって、ホントはその方が気楽で有り難いじゃろう」
私「なんだか、与党の政治家が意外に中韓ファンな理由がわかってきましたよ(笑)」
老「反省してます、すいませんと謝っておけば、それ以上の追求はされなくて済む。見事な処世術じゃ。尊敬はされないと思うがの(苦笑)」

私「ついでに確認しておきたいのですが、老師は戦争責任の問題について、いかがお考えでしょうか?戦後世代に責任があるわけない、という論理はわかりましたが、現実にそれでも『認識』という文学問題にすり替えて責められるわけですけど」
老「うむ。戦争責任問題の本質はナショナリズムの問題なのじゃ。実は、ワシは日本人である。日本に帰化したのじゃ」
私「へー。そうだったのですか」
老「それで一つ質問じゃ。帰化した日本人であるワシに、戦争責任があるであろうか?」
私「え!?いや、、、ええと。普通に考えたらない、のかな?けど、それを分かってて帰化したのなら、ありそうな気も」
老「ふむ。で、実は帰化したのはワシの父での。母は日本人じゃ。それでワシが生まれた。つまり、ワシはハーフなのじゃ。で、戦争責任はどうかの?」
私「ええ?!えっと、でも、母が日本人なら、、、だけど、、、半分、、、かな?いや、やっぱり日本人だから。。。うーん」
老「ワシに責任ありとしよう。すると、当然に日本に帰化した朝鮮人や中国人、ブラジル人もみんな戦争責任がある、となるわの。今は日本人じゃからの。もちろん、戦後の話であるぞ」
私「そうですね」
老「それで、どうやって戦争責任を感じろ、というのじゃ?すごくムリな注文、というよりイチャモンじゃろうが」
私「たしかに。つまり、普通に考えて、先祖が日本人であった場合、となるでしょうなあ」
老「すると、じゃ。ハーフの場合はどうなるのじゃ?」
私「ハーフ、ですか?ううーん、やっぱり、半分、かなあ?いや、それでも、先祖の日本人がいるのだから、すべて、かな?」
老「ふふふ。面白いの」
私「何が、ですか?」
老「今の議論の中の『日本人』という言葉を『ユダヤ人』に置換して、読み直してみることじゃ」
老師はニンマリと笑った。
老「わかるかの?つまり『戦争責任問題』の論理は、ナチスにそっくり、うり二つなのじゃよ」

(次回 あと書き に続く)