Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

長恨歌


不夜城」シリーズの第3作。おそらく、完結編。

主人公は武基裕。満州生まれで、祖父が対日協力者だったこともあり、日本への憧れが強く、残留孤児になりすまして日本に入国。会社づとめをしていたが、折からの不況で会社は倒産。やむなく、歌舞伎町の黒社会で揺頭(合成麻薬)ビジネスをしている韓豪という男の子分になっている。
その韓豪が、ショットガンで射殺されたところから話は始まる。武基裕は、日本の麻薬捜査官のスパイになっており、韓豪射殺事件の黒幕を逮捕することに協力を誓わされ、日本のヤクザと二重スパイをしながら「韓豪の仇討ち」を名目に犯人の捜索を開始する。
捜索の結果、錦糸町の夜の町を仕切る中国人徐鋭の名が浮かぶ。徐鋭の経営するクラブに潜入した武は、そこで子供の頃の幼なじみ小文と再会する。
武は、小文に「必ず迎えに来る」といった約束を果たせないまま、流されてきた自分に愕然とする。
小文の働いているクラブは売春スナックであり、彼女は徐鋭の女になっているようだった。武は、徐鋭の情報を求めて、歌舞伎町の凄腕情報屋「劉健一」と知り合う。
劉健一の情報網は素晴らしく、武が偽残留孤児であり、小文の幼なじみであることを、たちまち調べてしまう。武は、ひた隠しにしていた自分の秘密を暴かれたことで決意する。「劉健一を殺さねばならない」。。。

馳星周の作り出したキャラクター「劉健一」が不夜城でデビューしたとき、その人物の造型があまりにリアルなので驚いた。
台湾人と日本人の半々という設定の劉健一が、日本人社会にも台湾人社会にも居所がない、一種のボヘミアンとして黒社会に転落していく有様は、中国人の様々な価値観や習慣を活写しつつ、欲望のままに全てを裏切って生きる歌舞伎町の裏面を見事に切り取ってみせた。
おそらく、日本ハードボイルド史上に残る傑作であって、おそらく30年後は、大藪晴彦「野獣死すべし」と同列に並べられるかもしれない。それぐらいの名作だったのだ。

本作では、劉健一は歌舞伎町のフィクサーになっている。このあたりは、時代背景の違いである。
昔の「暗黒街の顔役」は、暴力とカネが力の源泉であり、それによって名望を得て、周囲を操った。今や他人を操るのは情報である、というわけだ。

評価は☆。日本のハードボイルドとして、充分に存在感はある。

ただし、本書に一種の「物足りなさ」を覚える読者がいても、不思議ではないと思える。
タイトル「長恨歌」には、2つの意味が重なっている。
一つは、白居易の詩に有名な、引き裂かれた恋愛である。この恋愛は、けれども、幼き日の淡い思い出だから、一種の「純愛」である。馳星周に「純愛」を求める読者は、少ないだろうな(苦笑)

もう一つは、本書のなかにある。「故国を捨てて、日本に来た中国人は地団駄を踏んでいるだろう」今や、中国各地には転々と大都会が出来、誰もがカネを追いかけて経済成長を謳歌している。
一方の日本は、長きにわたる不況に沈み込んだままだ。歌舞伎町は、かつてのような「黄金のドブ」ではないのだ。どうして、国を捨ててしまったのだろう?なんで日本になんか来てしまったのだろう?
主人公の武は、どうして「何もかも捨てて、逃げてしまわないのか」自問自答する。歌舞伎町を捨てられない武を、劉健一は見抜いている。
劉健一は、日本にも台湾にも居場所がないボヘミアンであり、武も偽りの残留孤児であって、故国を無くした人間だ。
この世に、どこにも居場所がない人間が流れ着いたのが歌舞伎町である。かつては金儲けのために歌舞伎町に流れた。己の欲望の行き着く先が歌舞伎町であったのだ。
しかし、今や、歌舞伎町は、どこにも行く場所がない人間の終着駅となっている。もはや、欲望すら、この町からすっぽりと抜け落ちようとしており、残ったのはニヒリズムだけなのだ。

もしも本作に「物足りなさ」を感じるとすれば、それは「不夜城」登場から没落し続ける日本に対する「物足りなさ」と同じであろうと思う。既に、ハードボイルドが成立する町ではなくなったのだ。だから、劉健一は死ななければならない。歌舞伎町に居なければ、劉健一ではない。
時は過ぎ去ったのである。