Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

ハイエク-知識社会の自由主義

ハイエク-知識社会の自由主義池田信夫

経済学者にして人気ブロガーでもある池田氏によるハイエク入門本。
ハイエクと言えば、いわゆる「保守主義」の総本山と誤解されている向きもあるが、果たして実際はどうなのか。そういう興味で読んだ。

ハイエクは、いわゆるケインズとの論争が有名である。
ケインズによる、政府による市場への介入を、ハイエクが批判したからである。
当時は、ケインズ全盛であって、ハイエクの主張は「保守反動」なので、特に知識人から嘲笑の対象になった。
しかしながら、ケインズ政策によって政府の負債が積み上がった英国、米国において、いわゆる新自由主義型経済政策が功を奏したこともあって、ハイエクは再評価されることになる。
一方のケインズは、フリードマンらによる批判にあって、いったん完全に死んだと思われたわけだが、最近になっていわゆる格差問題などに新自由主義が無力であるという反省から、新ケインズ主義として復活の兆しがある、、、などというあたりが、私の認識である。

もっとも、本書によると、ハイエクの主張はいささか違っている。ハイエクは、政府による市場介入を否定したが、それは必ずしも「自由放任」の推進ではなかった。
ただ、計画経済そのものが、実際にはうまくいかない、つまり人間が「合理的な存在である」という前提そのものに対する否定である。そういう意味では、ハイエクの主張は哲学的であり、しばしば政治的な主張を行ったケインズとはスタンスがそもそも異なっているように思う。

ハイエクが、経済活動における「自由」を主張したのは、古典経済学が主張する合理的な「経済人」を否定したからである。
人間は、過去の慣習やら伝統やら、いろいろな理由でしばしば「不合理な」決断をする(最近の行動経済学とも通じる主張である)。
しかし、それらを否定するべきではない。人間の理性には、限界があるので、不合理な決断と思えるものが、実は長期的にみれば良い決断であるかもしれない。
古典経済学で想定された「完全競争」は、現実の世界には存在しない。だから、いかなる人間による(政府であっても)介入は、期待通りの結果を導かずに、かえってマイナスの効果をもたらす可能性が高い。
すなわち「情報の非対称性」や「不完全ゲーム」がある世の中であるからこそ、自由な経済が必要なのである。。。

ハイエクの主張は、煎じ詰めれば「世の中をよくする経済学」に対する死亡宣告につながりかねない。
晩年のハイエクが、むしろ市場のルール整備の方向に向かったのは、結局のところ、自由な競争を行うためにはルールが必要だ、という結論に落ち着いたように思える。
しかし、かつてのハイエクの主張から考えれば、人間によるルール整備は、やはり矛盾に感じてしまう。
年をとって丸くなったのかもしれない(笑)
まあ、私程度のアタマでは、そういう結論になってしまうのだな。

評価は☆☆。
読みやすいし、ハイエクに関する入門書としては面白いのではないだろうか。私は、他の本も読んでみたくなったなあ。

物理学の世界では、巨大な天体の運行を記述する相対性理論と、極微の世界を記述する量子力学の矛盾が大問題である。「スケールが大きくなれば相対性理論、小さくなれば量子力学」で済めば、理論物理学はいらない。
じゃあ、いったいいくつまでの大きさなら相対論で、いくつ以下なら量子力学なのですか?そもそも、同じ物理現象を記述するのに、相手の大きさで理論が変わるのはどういうワケですか?となる。この話は、先日もノーベル賞を受賞した南部陽一郎博士の「対称性の破れ」という摩訶不思議な宇宙論に至る。「4つの力」を統一する究極理論につながるはずだ。
ケインズ経済学では、マクロ経済とミクロ経済を区別する。ミクロ経済では、自由競争によってもっとも効率的な分配が行われるが、マクロ経済ではそうではない。これは、ミクロ経済では、需要と供給のバランスが常にとれるような自律的な力が働くが、マクロ経済になると総需要と供給が必ずしも一致しようとしなくなる、ということを意味する。この点を捉えて、ハイエクは統計に意味がない、と指摘した。
物理学者であれば、ただちに「どこからがマクロで、どこからがミクロなのか?」「その境界を決める力は何か?」「「同じ経済現象を記述するのに、統一した数学はないのか?」と聞いただろう。
そういうことを考えなければ、ノイマンが「ニュートン以下の数学」だとこき下ろし、ファインマンが「科学とは呼べない」と批判した経済学から一歩も抜けないのではないか、と思われる。
私は経済学の門外漢なので、そんな感想を持つのだろうと思うが。

誰か、平易にこれらの問題を解説してくれないものでしょうか。