Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

連帯責任と差別

私は、昔から「連帯責任」が嫌いである。
だってそうだろう。

まず第一に、権利義務の原則に著しく反する。
自分がすることの責任を問われるのは当然であるが、どうしようもない他人の責任を負って罰を食らうのは理に合わない。
そうであれば、そういう奴をどうにかする権利をもらわねば。話があわぬではないか。
ところが、実は「連帯責任」を言う奴に限って、他人の権利に冷淡である。
そこで腹が立つ。もっとも権利に疎いのはてめえ自身じゃないか、と思うのである。

第二に、差別的である。
一族郎党が何かをやらかしたら、全員連座では、まるで江戸時代のやり方そのものである。
これを肯定すると、どうなるか?
親が犯罪者なら子も有罪、となる。ひいては、先祖が犯罪をしたので、奴は仕方がないとなる。差別の発生である。
このようなことが、あってよいはずがない。
人間、オンギャーと生まれたときに、少なくとも法的権利の上では平等でなければならぬ。
連帯責任がこの原則に反すること、火をみるよりも明らかではないか。

第三に、社会の信頼性を失わせる。
連帯責任の目指すところは、つまるところ「みんなに迷惑をかけない」ことであろう。
その自覚を持たせる、というお題目で、この制度は行われるのだ。
その結果、相互に「あいつがへまをやらかすのではないか」という目で互いを見るようになる。
監視社会、相互信頼のない社会のもとである。
これをして楽をするのは指導者である。相互に監視するのだから、いわゆる支配者に便利な制度である。
しかしながら、自分は支配者ではないので、支配者の手間を省いてやらねばならぬ義理がない。
もし楽をしたければ、対価を支払え。
すべからく、連帯責任を言う奴は、まず相手に「連帯責任手当て」を支払ってのち、それを主張できるというのが自由主義的な解釈であろうと思う。

などと、理屈を並べてみたが。

世の中には、不条理な連帯責任が生じる場合がある。

このたび、広島の刑務所で脱走者がでた。刑務所は平謝りであった。
とうぜん、この管理不行き届きは、きびしく批判されることになる。
すると、その結果、どうなるであろうか?

実は、脱走しなかった囚人達に対して、今まで以上の厳しい管理がされることになるのである。
よくよく考えてみよう。
脱走した当人が、どのような重い罰を受けても、それは仕方がない。ルール違反である。
脱走しなかった他の囚人は、そうではない。
しかし、世の中から厳しい批判を受けた刑務所は、今までの「甘い」管理を大いに反省して、今後はより厳格に刑務所を運用するようになるであろう。結果、脱走しなかったにも関わらず、囚人達は今まで以上に厳しい生活が待ち受けていることになる。
これは、結果としては立派な「連帯責任」を負わされた形になってしまうのだ。

私は自由が好きで、差別が嫌いな人間である。何が嫌いといって、一番差別が嫌いなのである。
「戦争責任」を言う奴が嫌いなのも、それは差別の肯定だからだ。
ある人にそういったら、「そうではない」と決然と言ったが、なぜ「そうではない」のか、まったく説明がなかった。
当たり前だろう。自分がやらなかったことの責任(まして、生まれる前だよ)を言われたら、それを差別という。
こんな簡単な理屈に、反論があろうはずがないじゃんか(笑)
差別を肯定する「人権屋さん」が嫌いなのも、こういうシンプルな論理矛盾を、一向に説明してくれないからである。

どうしたら差別のない世の中がつくれるのか。
それを考えていかないといけないと思うのですなあ。