Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

弁護人

「弁護人」スティーブ・マルティ二。

主人公は弁護士のマドリアニ。それまでの活動拠点のサクラメントを離れて、サンディエゴに引っ越してきた。
サクラメントには疲れた、ということらしい。もう少しのんびりした南の地方都市で働こう、というわけだ。
で、さっさと付き合う女性なんかもできて、結構うまくやっている(笑)

そこに、かつてのクライアントのヨナが訪ねてくる。彼は宝くじで当てた大金持ちなのだ(アメリカの宝くじはキャリーオーバーがつくので、すごいのになると数十億円当たることがある。ヨナは、その数十億を引き当てた人物である)
ヨナの相談は孫娘を取り戻してほしいというものだった。
ヨナの娘はどうしようもない非行娘で、ドラッグ中毒であり、シングルマザーである。
まともに孫の養育ができないと見て取ったヨナは、孫を引き取って育てていた。
ところが、その娘に過激女性活動家のゾランダが近づいてきて、娘を取り返すのは母親の権利だという。
そしてある日、突然二人組の女が乗ってきた自動車が現れて、孫娘を連れ去ってしまう。
ヨナは警察に届けたが、警察は「母親が娘をさらったのであれば、それは誘拐ではない」ということで、動いてくれない。
困ったヨナは、マドリアニに孫を取り返してほしい、と持ちかけてくる。

マドリアニが捜査したところでは、この種の事件をいつもゾランダは起こしている。
著名人や金持ちの孫を、決して他人に分からないメキシコに連れ去って(もちろん母親のため、という動機はある)身代金とともに返すのである。
ゾランダは、そうして活動資金を得ているらしい。
しかし、ゾランダの行為は、決して犯罪ではないのである。
マドリアニは、今度もゾランダの仕業とにらんで彼女と話に行くが、けんもほろろに追い返されてしまう。
ところが、そのゾランダが、車に乗っているところを射殺されてしまう。
警察は、犯人をヨナとにらむ。
ヨナには、当日のアリバイがなかった。孫娘の件で、ゾランダとトラブルになったヨナが、ゾランダを射殺したという筋書きである。
しかも、使われた拳銃は、ヨナが自宅に置いていたものらしい。
おまけにヨナの当日釣り上げた魚の血が、クルマの中で見つかった。

マドリアニはヨナの弁護に立ち、真実を告げて司法取引をしてはどうかと勧める。そうすれば、死刑にはならない。
しかし、ヨナはこれを拒絶する。ヨナの年齢を考えれば、20年の有期刑でも獄中死を意味する。そうしたら、もう孫娘に会えない。
だいいち、やったのは自分じゃないのだ、と。

かくて、マドリアニは真相を求めて、真犯人を見つけながら、法廷戦術でヨナの裁判を引き延ばす。
判決までに真相を明かす証人を見つけなければならないのだ。。。
そして、マドリアニは、ついにメキシコの麻薬密売組織までたどり着く。
果たして、ヨナは無実だったのか?あるいは、死刑判決となってしまうのか?


アメリカは訴訟社会である。
そのためか、いわゆる法廷小説という分野が非常に発達している。陪審員を納得させる証拠を出せるかどうか、そこでぎりぎりまで争うのである。
考えてみれば、社会としては不幸な気がしないではないが、多民族国家であるアメリカでは、これは避けがたいことなのだろうと思う。

本書の著者は、この種の小説の優秀なライターにふさわしく、やはり法曹出身らしい。
法廷のやりとりが、細かく、わかりやすく書かれている。

評価は☆。
なかなか面白い。
ギリギリまで「ヨナがやっぱり真犯人なのか」と思わせるところがたくみだ。
ヨナは労働者階級出身で朴訥な男で「わしはやっておらん。やっておらんものをやったとはいえん」と言いはる正直な男である。
しかし、証拠はすべてヨナを示しているのだ。
弁護士として、ヨナを信じるべきか否か?迷いながら裁判に向かわざるを得ないマドリアニの心情がうかがわれる。

他人を信じるというのは、なかなか難しいものである。
信じなければ仕事はできない。しかし、相手が信じるに足るかどうか、最後までわからないのである。
ビジネスの世界では、よくあることだ。
揺れ動きながら、しかし、なんとか進むしかない。それが現実である。

その点、外交問題などはもっと辛辣である。
だいたい、外国はすべて信じちゃいけないと思っておけば間違いない。
支那は日本を侵略することしか考えないし、アメリカはいざとなれば日本を見捨てると思っていれば間違いない。
ロシアは再び火事場泥棒をできると考えて舌なめずりをするし、韓国は日本相手なら何をしてもいいと信じている。

しかし、だからといって孤立すれば、隣国中が大喜びで、よってたかって叩きにくる。
その場合には、日本はまた敗戦国として、一億総ざんげをさせられるだけのことである。
つまり、信じてはいけない連中をいかにして味方にしておくか?
信じないのは結構だが、しかし、信じない末路は哀れである。
信じられないものを信じながら、手さぐりに進むほかない。ほかに、生きる道はないのである。

この世のつらさは、個人も国家もかわりがないが、しかし国家のほうが「すさまじい」ものであるよなあ、と思いますなあ。