Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

私を離さないで

「私を離さないで」カズオ・イシグロ

ヘールシャムという養育院で暮らす子供たちの一人、キャシーが主人公。
彼女の友達には、少々自己中心的で詐話癖があるルース、問題児だが実は心優しいトミーがいる。
教官は妙に厳格で、どういうわけか教育プログラムでは図工が重んじられる。
その生徒たちの作品を、マダムと呼ばれる謎の女性が、出来の良いものだけをもっていくのである。
それは、ヘールシャムの生徒にとって、非常な名誉とされる。
その中で、子ども達は成長していく。
キャシーは、あるときカセットテープに「私を離さないで」という歌がはいっているのを聞き、それを一人で何度も聞くのが好きになる。
なぜか、その姿を見ていたマダムは涙をながす。

ヘールシャムを卒業した子供たちは、コテージと呼ばれる施設に移り、そこで卒業論文を書きながら数年を過ごし、そのあと「介護人」と呼ばれる職業につく。
彼らが介護するのは、臓器移植のドナーたちである。
いろいろな臓器を提供したドナーたちは、だんだん体調が悪くなり、やがて最後の使命すなわち自分の命を捧げて終わる。
彼らは、最後の使命を終わるまで、回復センターと呼ばれる施設で過ごす。
その回復センターで働くのが介護人である。
コテージでは、卒業論文を完成しなくても、自分が望めば介護人になることができる。

ルースも、トミーも、介護人になった。
そして、キャシーも介護人になった。
キャシーは、ルースの介護をすることになった。
ルースは、トミーと付き合っていた日々を思い出しながら、しかし「トミーに本当にふさわしいのはあなただった」と言い残して最期の時を迎える。
その言葉によって、キャシーは、トミーの介護人になることを決意する。
トミーも体調が悪化していたが、ふたりは愛し合うようになる。
そこで、トミーは、ヘールシャムでの噂を思い出す。二人が愛し合えば、提供を猶予してもらえる、というのである。
ふたりは、ついにマダムを探し出し、自分たちの猶予を願い出る。
そこで、二人は、ヘールシャムの真実を知る。
提供を猶予することはできない。
マダムと教官たちは、クローンで生まれた人間にも、充分な人間性があることを訴えるために、ヘールシャムの子供たちの作品を必要としていた。
しかし、最終的には運動は挫折したのだ、と。

やがて、トミーは最後の使命を果たした。
キャシーの長きにわたる介護人人生も終わりを迎えようとしている。
介護人が終わるとは、もちろん、介護される側にまわることである。。。。


本作は、まぎれもなくSF小説である。
それでいて、この文学性の高さはどうだろう。
日本では「士農工商犬SF」(苦笑)といわれるくらい、SFの地位は低いのだが、英米文学ではそんなことはない。
ついでにいえば、村上春樹カート・ヴォネガットのパ○リではないかと思っているのだが、日本の文壇ではそれに気づいた人がいなかっただろう。
だって、日本の出版社はSFのハヤカワだもんね。文学やっている連中が、ハヤカワは読まないからなあ。

ま、それはそれとして。
カズオ・イシグロといえば、「日の名残り」が名作で、過ぎ去りしよき時代を思い出せる抑制された淡々とした描写が秀逸で、胸を打ったものだった。
イシグロは、そのパターンを繰り返すのが嫌いだったらしい。
そこで、違う作品を試行錯誤して、本作の発表となったのだという。

だけど、やっぱりこの淡々とした筆致は、イシグロ以外の何者でもない。

さて、人間には「人権」というものがあり、これによって他の生き物とは隔絶されている。
人を殺せば殺人罪であるが、他人の犬を殺せば器物損壊である。
当たり前であるが、犬には「人権」がないから。
もしも、他人でなく野生の犬であれば、これは誰の財産でもないわけで、もちろん無罪である。

しからば、そのような「もの」と「人間」の区別は、どこでつけられるのか?
たとえば、他人の臓器は「もの」ではない。他人の臓器を傷つければ「傷害」である。
ならば、人間のDNAから作られた臓器(IPS細胞があれば、いずれできる)はどうだろう?
人が作り出した臓器は、人間と同じDNAを持っていても、人間の臓器とは違う。よって、いくら傷つけても、傷害罪にはならない。
では、その「人が作り出した」臓器が、たくさんあったらどうなるか?
それは、本作の主題のようにクローン人間になる。
「人が作り出した」人は、しかし、誰かがこれをつくった以上、誰かの「所有物」である。
すると、これに人権はあるのか?
さらに進んで、仮に、もともと臓器移植目的で、人間を複製してクローン人間をつくった場合、その「人権」も複製されるのか?など。
18世紀の欧州に生まれた文化的概念である「人権」は、キリスト教の下地があるから「天賦人権説」神が与えたもうたことになっているのだが、神ならぬ人間が造物主である存在についてはどうなんだろう?となる。
これらの疑問は、人権という社会的なフィクションに対する地平を示すものである。

まあ、そんなことを考えなくても、この小説はとても美しく、残酷である。
この世界に浸りきって楽しむだけでいいのかもしれませんね。