Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

孤高の鬼たち

「孤高の鬼たち」文芸春秋編。
文芸春秋が、物故した有名作家の素顔を知る人たちに書いてもらったエッセイ集である。
大作家たちの素顔をかいま見られて面白い。

昨日の都知事選で、細川候補の応援演説に出てきた瀬戸内寂聴氏は、太宰治のことを書いている。
三鷹市下連雀に駆け出し作家の彼女が住み始めたころは、太宰の死後3年後であった。
そこかしこの店に太宰の面影が残っていたそうだ。「そこに太宰がよく来た」「ここを太宰が通った」という具合に。
面白いのは彼女が三島由紀夫のファンで、ファンレターに返事をもらっているらしいことで、うっかり太宰のことを書いたら返事がきて
「あの顔も声も、想像しただけで気分が悪い」
とあったそうな(苦笑)。まあ、これはさもありなん、である。

夏目漱石の娘、筆子は漱石神経症を書いている。
ふだん、おだやかな父は、神経症の発作が来ると、家族に当たり散らした。
娘にもたびたび暴力をふるったらしい。
今でいえば、立派なDV親父だ。
大文豪の神経は、実に繊細で傷みやすかった。

読んでいて一番すごいと思ったのは、高橋和己である。書いたのは同僚作家の北川壮平である。
いつかきっと世に出る、と大学の文芸仲間と話していた高橋や北川であったが、なかなかチャンスは訪れない。
そこに「文学界」新人賞を受けて颯爽とデビューしたのが石原慎太郎だった。
ここで高橋たちは、深刻なショックを受ける。とぼとぼと、くらい農道をあるいているような文学修業をしていたところへ、オートバイに乗った石原が颯爽と彼らを抜きさったような錯覚を覚えた、という。
「自分たちの文学は、時代遅れになったのではないか」
売れるアテのない長編小説の原稿を押し入れに積み上げながら書き続ける高橋は、まさに「鬼」である。
発表する場を求めて、借金までして自主出版した小説もなんの反響もなく、同人誌も中途挫折し、それでも書き続けた高橋はおそるべき才能といわねばならない。
普通の人間ならば、まず心が折れてしまうだろう。

評価は☆☆。
現在絶版だが、実に面白い本だった。
読みながら「文学」に賭けた鬼たちの気迫が伝わってくる。

もっとも悲惨な章は、坂口安吾を書いた三千代夫人の手になる。
ヒロポン中毒と睡眠剤の乱用で、安吾の精神は狂っていく。
ついに、二人は心中を決意する。
ところが、そこで今生の名残りに中華料理を食べながら、夫人は忽然と気付く。
「こいつを死なせてやる日だ」
という夫は、自分が死ぬ気はさらさらないのだ。この人は生きるつもりなのだ。
生きるつもりならば、なおる。じゃあ死ぬことはない、と思い直した夫人は、お別れした自宅に車を差し向けて帰るのである。
そのまま、ついに安吾を精神科に入院させるのである。

人は、なんといっても、生きねばならぬ。
どんなにかっこよいことを並べてみたところで、死んで花実が咲くものか。
ののしられようと、さげすまれようと、その軽蔑を受ける生を、それでも生きねばならん、と思う。
どこでどう風向きが変わらんとも限らぬのであるし、風向きが変わらずとも、いずれちゃあんと人は死ぬのである。
生きろ、生きろ。
安吾の「堕落論」は、そういう意味だと改めて思った次第である。