Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

誰もが戻れない

「誰もがも戻れない」ピーター・ロビンスン。

アーサー・エリス賞受賞作。しかし、日本では、あまり人気が出なかった?アラン・バンクス警部シリーズ。
このシリーズを読むのは初めて。

舞台は英国のヨークシャー。バンクス警部は、殺伐たる事件が連発するロンドンに嫌気がさして、田舎のヨークシャーに自ら望んで赴任してきた。
自ら地方に飛ばされて、ここで、落ち着いた人生を歩もう、というわけだが、そうはいかない。地方であっても、やはり厄介な事件は起こるのである。

第一報は教会の墓地から、近所の名門女子校の生徒が殺されている、というものだった。
警察が駆け付けると、女子高生は絞殺死体であり、その近くからは下着も発見された。
しかし、検死の結果、死体には暴行のあとはなかった。

第一発見者の神父の夫妻や学校で小間使いをしていた外国人の男、女子高生と交際していて別れた不良男など、様々な人物が捜査線上に浮かんでは消える。
しかし、被害者が来ていたアノラックに付着していた微量の血液が決め手となり、女子高の臨時講師の男が逮捕され、起訴された。
男は拘置所の独房に入れられ、新聞は凶悪な殺人犯として書き立てる。
臨時講師は、学友の弁護士に助けを求める。
その弁護士は、最強の女弁護士を連れてきた。
やがて公判。
女弁護士は、臨時講師が当日、現場近くまで散歩に出かけたときに、被害者と橋の上で接触し、そのときに小さなひっかき傷ができたため、付着した血液であると主張。
目撃者の証言も、犯行現場を目撃した者はなく、橋の上に向かっていく被告人と被害者の姿を霧越しに見ただけであったので、女弁護士の説明でも矛盾はない。
彼女は、さらに物的証拠がなく、被告人が一貫して犯行を否認していることから「合理的な疑いが残る以上、無罪推定を」と訴える。
やがて、判決。
臨時講師は見事に無罪を勝ち取ったが、世間に出てきたところで、その周囲は「あいつがやったのに、証拠が不十分でうまく逃れた」という視線だった。
臨時講師の職も失ってしまう。
自暴自棄になった男は、裁判で不利な証言をしようとした元恋人の女のところへ、酒を飲んでふらふらと向かう。

一方、バンクス警部は、捜査を最初から考え直し、臨時講師は本当に無実であったのかもしれない、と思いはじめる。
だとすれば、いったい誰が犯人なのか?
再度、参考人たちを尋問する警部は、やがて、犯行動機につながる大きな謎にぶちあたる。
被害者のかばんは開けられていた。何か、取られたのではないか?それが、犯行につながるものだったのではないか。

そして、バンクス警部は、ついに真相にせまる重要な証拠をつかみ、ある人物を参考人として呼び出した。
一方、元臨時講師の男は、周囲から孤立し、ついに本当に衝動的な犯行を行ってしまう。。。


かなり長い小説だが、一気に読ませる。
相当面白い。評価は☆☆。

主人公のバンクスは、まったくの平凡人である。音楽が好きで、クラシックもロックも聞いている。
とりわけブリテンがお気に入りなのは、やっぱり英国人だからだろう。

あちらの陪審員制度というのは、被告人が有罪か、無罪かを評決するものだ。
一事不再理の原則があるから、いったん無罪判決を得たら、裁判のやり直しはない。
つまり、臨時講師は、もはや無罪が確定なのである。
それでも、周囲は「司法制度が被告人有利だから」だと考えて、彼の潔白を信じてくれず、彼は孤立する。

意外だったのは、英国でも、そういう無理解があるんだなあ、ということだった。
実は、こういう反応は、日本特有のものではないか、と思っていたのである。
なぜかというと、日本人は「弁証法」に慣れていないからである。

よく日本で、たとえばヤクザやオウム真理教の弁護にあたる弁護士を「あんな極悪人の弁護なんかして、そんなに金が欲しいのか」「白を黒と言いくるめて」というようなことを言う人がいる。
これは、簡単にわかる間違いである。
白か黒か、決めるのが裁判なのであって、黒を白と言いくるめているわけではない。

では、どうすれば白か黒か、わかるのか?
それは「戦い」の中で、明らかになるのである。
つまり、検察は全力で被告人の罪を明らかにする。この世に、こんな悪人はいない、とばかり、ぼろくそに言う(ほんとにそうである)。
検察の言うことを聞いていると、被告人は全員、すぐ死刑でも何ら問題ないくらい、である(苦笑)。

一方、弁護士は逆である。
被告人は悪くない、と全力で言う。
それは勘違いであり、不可抗力であり、誤解である。あるいは、社会が悪い、周囲が悪い、とも言う。被告人は悪くないのである。
弁護士の言い分を聞いていれば、全員、即無罪釈放である(笑)。

で、対立する立場の言説を裁判官が聞いて、たぶん、実態はこんなものなんだろうなあ、と考える。
とすると、罪は、こうなるな、と。
それで白黒が(有罪であっても量刑の程度が)変わる。

大事なのは、検察と弁護側が「対立」しなければ「ならない」ことである。
弁護士が、もしも検察側と同じ見解だったら、裁判にならないのだ。そうなれば、真実にたどりつけず、正しい判断が行われない。
裁判とは「異なる立場の人間が、互いに意見を戦わせる」ことによって、真実にたどり着くという制度なのである。
弁証法そのものである。

ところが、日本人は、その「真実を見出すという仕組み」が理解できない。
なので「あんな悪人を弁護しやがって」という。
弁護士は、どんな悪人でも、全力で弁護する。そうしなければ、司法制度の根幹にかかわるのだ。「仕組み」が機能しなくなるからである。

日本人は、偉いヒト(裁判長や遠山の金さんや水戸黄門)が、ズバリと「正しい判断」を下すのに喝采する。
結論に向けて一直線、ダイレクトなのを好むのである。
「正反合」という「矛盾と対立を経て、真実に至る」という文化がないのではないか、と思う。
なにしろ「和を以て貴しとなす」ので、対立自体が悪である、と感じているからだ。

欧米人は、激しい議論をしていても、終わるとけろりとしている。それは「過程」だと理解している。
日本人は、そうはいかない。「立場」と「方法論」がごっちゃになるのである。

西洋音楽では「ソナタ形式」が発達したが、日本の音楽では、テーマを対立させる、という考えがない。
旋律はあるが、それはほとんど、単線で流れるものである。

日本の小説もそうである。西欧の小説は、重層構造や複数視点が多く導入されるが、日本の小説では、そういうものは一般的に好まれない。
日本人にとっては、どたらがどちらとわからない小説(感情移入できるメインの人物が不在)だと見えてしまう。
そういう意味では、西欧の小説は論理であり、日本の小説は情緒だといえる。

その話は、実は歴史観にも及んでいて、、、と言い出すと、話がややこしくなるから、このへんで止めにしておこう(笑)。

でも、本場の英国でも、やっぱり、理解していないケースはあるようで。
まあ、そんなことを思いましたよ。