Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

時間はどこで生まれるのか

「時間はどこで生まれるのか」橋本淳一。

最新の物理学の成果をもとに「時間とは何か」という哲学的な問いに至る本である。
時間論というのは、別に珍しくもないのであるが、本書の価値は「最新物理学の成果」から考察をはじめるところにあるだろう。
そういう意味では、本書は前半に価値が大きい。
後半に筆者なりの時間観が開陳されるのであるが、それはあくまでも一つの解釈の例であって、そのほか、読者によって様々な見方がでてくると思う。
そういう面白さを与えてくれる本である。

まず、量子力学の世界では、そもそも時間は存在しない。
素粒子の存在を数学的に記述することで、物質の存在の根源に迫ろうとする学問が量子力学であるが、その根本となるシュレーディンガー方程式を見ても、時間は存在しないのである。
本書の言い方をすれば「ミクロの世界には、時間は存在しない」のである。
それどころか、素粒子の存在そのものがあやふやだ。
普通、我々が考えるときには、存在は「する」か「しない」かで、中間はないのが当たり前である。
ところが、量子力学では、「Aにある確率が50%、Bにある確率が50%」という存在のしかたをする。
これは「観察したら、AかBの、どちらかに存在している」のではない。
「AとBに、同時に50%の存在をしている」のである。観察した瞬間に、その存在はどちらかに収縮するが、それは「瞬間」である。時間はないのである。

一方、マクロの世界を表す相対論では、絶対的なものは光速だけである。
その光は、光速で飛ぶと時間はどんどん縮小していき、長さも縮小していく。
宇宙の端から端へ、何万光年かかって飛ぶ光であるが、光速で飛ぶ光子自身にとっては、縮小されてた一瞬の時間のうちに、宇宙の端から端まで飛ぶことになる。
光子自身にとっては、時間は存在しないと同じである。

そして、量子論と相対論のどこにも、時間の向きや流れを暗示させる法則はない。
最新の物理学からすれば「時間はない」のである。

では、我々が認識している「時間」はどこで生まれているのか?
実は、時間とは「我々が世界を認識する方式」そのものではないのか?ということである。
つまり、時間は我々の都合で「あることになっている」のではないか。
エントロピーが増大する方向に、我々の認識がなっているというのが、ほんとうのところではないか。
それは「意思」と呼ぶことが出来るのではないだろうか。。。


評価は☆☆。
素晴らしい書物である。
ただ、後半は、あくまで考察の一例として読むのが良いだろう。

我々は、よく時間を手近な教訓話にしがちである。
「ほかのどの資源よりも、時間は平等だ」とか「人生は、つまりは時間の使い方だ」とか。
そして、結論はつねに「時間は取り返すことのできない大切なものだから、決して無駄遣いしてはいけない」となる。
そうして、やたら忙しがっているのである。
しかし、本書のとおり、その時間そのものを作り出しているのが、我々自身であるとすればどうか?
忙しくしている、時間がないといって焦っているのは、誰有ろう、我々自身の仕業ということになる。
本来の意味では、客観的な物理量としては「時間はない」のである。

そんなふうに考えると。
少しは気が楽になりませんかね?この一瞬も、長い長い過去も、遠い未来も、実はみんな同じで、ただぱらぱらと空間に瞬いているだけのものなんですね。