Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

破獄

「破獄」吉村昭

生涯になんと脱獄4回を行った実在の人物、白鳥由栄をモデルにした小説である。
本書では、佐久間清太郎という名で描かれる。

佐久間は、盗みをはたらき逃走する際に人と争いになり、相手を殺してしまう。
準強盗致死罪となり無期懲役の判決を受けて、まず青森刑務所に収監。
ここを、針金をつかった手製の合鍵をつくって、やすやすと脱獄する。
再度捕まって、今度は秋田刑務所に収監される。
ここの寒さに怯えた佐久間は、手製の金ノコで鉄格子を引き切り、脱獄。
東京で世話になった刑務官のところに自首する。
刑務所で過酷なあつかいを受けると、反発して脱獄し、当該の看守を困らせて復讐していた。
脱獄されたときの担当の看守はよくて減給、悪ければ首である。
佐久間は、自分に厳しくあたった看守が当番のときを狙いすまして脱獄するのである。
一方で、情にもろく、親切にしてくれた人には心を許すようなところがあったらしい。

佐久間は、自分を東京に収監してくれるように強硬に頼むが、願いは聞き入れられず、もっとも過酷で脱獄不可能と歌われた凶悪犯専門の網走刑務所に収監される。
恐ろしい極寒の獄であった。
その中でも、もっとも脱獄の難しい鎮静房に収監される。
横になって眠るのが精一杯の小さな部屋で、あるのは天井近くにわずかな覗き穴ばかりという、まさに過酷としか言いようのない房である。
その上、鍵穴のない手錠(つけはずしの都度、カナテコで鋲をたたいてつぶす)を後手錠にされ、足も足錠。
こんな状態だから、飯を食う時は犬のように顔から食うしかないのである。
便は、部屋の隅に掘られた溝に垂れ流しであった。もはや人間に対する仕打ちでなかった。
ようやく大人しくなった佐久間は、後ろ手錠だけははずされた。
幸いだったのは、ちょうど時代が戦中で、どこの刑務所も食糧事情が悪かった(それでも一般人の配給1日2合6酌に比べて、囚人は1日6合だった)にもかかわらず、網走だけは自前の農場とニシンのおかげで、とりあえずは食料があったことである。
そして、この脱獄不可能な網走刑務所からも、脱獄。
なんと、食事の味噌汁を根気よく手錠と鉄格子に吹き付け、塩分の腐食によって手錠と獄をやぶり、天井をつたって逃走した。
畑で泥棒をするうちに見つかり、争いになって相手を殺してしまい、ついに殺人の罪で死刑宣告を受けて札幌刑務所に収監された。本人は過失を主張。
札幌刑務所では、屈強な看守が6人もつき、交代しながら独房を見張るという体制がひかれた。
この状況で、佐久間は上を見上げる動作をときどき行うようになり、刑務所側が天窓からの脱獄を警戒する中、なんと実は床板を引き破って、床下を食器でほりぬいて脱獄。
終戦後、しばらく隠れていたが、移動中に職務質問を受けた警察官にタバコを恵まれて、そのまま自主同様に逮捕された。
佐久間の主張は一部が認められ、裁判で死刑判決が撤回され、無期刑となった。

佐久間が最後に収監されたのが府中刑務所であった。
ここで、はじめて佐久間は他の囚人と同様に慰問のリクレーションに参加し、所内の精米作業にも参加するようになる。
佐久間は落ち着き、脱獄のそぶりを見せなくなった。
刑務所長はいう。
「辛いことはないか」
佐久間は
「一緒に働いていた仲間が再犯して入所してくる。そのとき、お前はまだいたのか、と言われるときが辛い」
と答える。
「ならば、逃げないのか?君なら、簡単に逃げられるだろう」
と所長が言うと、佐久間は照れくさそうに笑って答えた。
「いやあ、もう疲れましたよ」

逃げないようにするよりも、そもそも逃げる気持ちをなくさせるしかない。そうするべきだ、という所長の信念が佐久間に打ち勝った場面である。


これは、素晴らしい小説だ。
評価は☆☆。
名作である。

次々と考えられない手法で脱獄を繰り返す佐久間の背後に、戦前から戦後にかけての日本の事情が見事に重なっていく。
これは、日本自身の知られざる戦前、戦中、戦後史である。

今でも、刑務所はやはり「日本の」知られざる一面を表している。
なぜ、100円ショップで、メイドインジャパンの文房具が売られているのか?
話は簡単である。
「ふつうの日本ではあり得ない」労賃で、仕事を請け負っているところがあるからである。
1ヶ月働いて数千円の報奨金をもらう刑務所が、まさにデフレ日本を支えているのだ。

犯罪と行刑は、その国の縮図である。
今では、どこの刑務所もかなり限度に近い。それも高齢者が多い。「最後のセーフティネット」それも刑務所のもう一面である。
人は、食えなければ、パンに手を伸ばすのだ。
食わずに死ぬか、食って生きるか。
やはり、人は食うほうを選ぶ。
その理解がなくて、戦前から戦中の日本の行動を、何も理解できはしない。
侵略だの、支配だの、聞いて笑わせる絵空事だと私は思う。
そうしなければ食えなければ、そうするしかないだろう。
それが生きるということである。
無用な誇りなどいらないが、卑下も反省もしない。その状況に、人は生きる他ないのである。
国家も、しょせんは人の集まりであろう。

キレイ事ばかりが通じる場面が、すべてじゃない、と思う次第。人間、そんなもんだと思うわけですなあ。