Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

本能寺の変 431年目の真実

本能寺の変 431年目の真実」明智憲三。

数年前に刊行されて大いに話題になった本である。歴史学者からはトンデモ本扱いされたようですが。

言うまでもなく「本能寺の変」は日本史最大のミステリーだ。
その謎は、大きく分けると2つで
1.動機の謎 なぜ明智は信長を裏切ったのか
2.黒幕の謎 明智は本当に単独犯だったのか、共犯者や黒幕がいたのではないか
ということになる。

本書は、在野の歴史マニアである著者が独自の視点で資料を読み込んで立てた仮説であり、それぞれの回答は
1.動機は信長の四国攻めであり、長宗我部氏と明智氏土岐氏)は深い関係があった
2.犯行は光秀単独ではなく、秀吉家康とも通じて行われた
ということになる。

まあ、これだけだったら単なる「トンデモ本」なので、私も手を伸ばさないのだが、本書刊行後、有力な発見があった。
岡山の林原美術館の蔵書の中から「石谷家文書」が見つかり、この文書の中に石谷頼辰宛の長宗我部元親の書状が発見されたのである。
これは「一次資料」であって、後世の創作ではないわけだ。
歴史は基本的に文書研究であるが、その価値は
一次資料・・・同時代の当事者または近しい人物によるもの
二次資料・・・後世の伝聞によるもの
となる。同時代の伝聞は、一次資料だけど当事者のものよりは劣るので、一次と二次の間くらいか。
つまり、石谷家文書は一次資料の出現というわけで、少なくとも本書の「長宗我部動機説」には強力な傍証になったと言える。

この石谷頼辰という人物は、光秀の重臣斎藤利三の兄であり、お福(春日局)の叔父にあたる。
山崎の戦いで光秀が敗れると、石谷氏はお福など一族を引き連れて、土佐の長宗我部氏のもとに逃れている。
実は、長宗我部元親の妻が石谷頼辰の妹(斎藤利三の兄妹)だったので、その縁を頼ったわけだ。
そして、息子の長宗我部信親の妻に、亡命してきた石谷頼辰の娘を充てている。いとこを嫁にしたわけである。
単なる亡命者に考えられない厚遇である。
その信親は、九州で島津勢と戦ったときに敗死。このとき、石谷頼辰も同じく討ち死にした模様だ。
ところが、驚くべきことがまだある。
元親は長男信親が亡くなったので、代わりに四男盛親に家督を譲るのだが、その嫁に亡くなった信親の娘を立てたのだ。
この結婚に反対した重臣は廃されている。
姪を娶らせたわけだが、政略結婚が当たり前の戦国時代において大変異例な配偶者の選び方であるし、とにかく石谷家と縁をつなごうとしているように見えるのである。
この石谷氏は明智氏とつながっており、つまり土岐一門ということになる。
光秀は、土岐氏再興をかけて長宗我部氏と同盟をしており、そのために織田氏を討ったのではないか?というのが本書の考察である。

この動機説は、それなりの説得力があるように思った。

ただし、秀吉と家康と同心していた、というのはどうかと思う。
秀吉の「中国大返し」は確かに怪しいし、家康の「神君伊賀越え」に至っては、どう考えても穴山梅雪殺害のアリバイづくりにしか見えないのは確かである。
ただ、光秀と秀吉や家康がそこまで肝胆相照らすほどの仲だったとは思えないのである。
本書の主張するように、信長が家康殺害を企てており、その機会に乗じて光秀が信長を襲った、というところまではあり得る。
しかし、それを事前に秀吉や家康に通告するはずがない。もしも、こいつらが裏切ったら、光秀こそアウトである。

後年の春日局抜擢やら、同一人物説がある天海僧正抜擢など、たしかに徳川家に土岐一門の影が見え隠れするが、困ったことに、家康と光秀を結ぶ輪に強力なものがない。
秀吉に至っては、出世頭を争うライバルであったし、とても手を組むとは思えない。
だから、共謀説はちょっと難しいな、と思った次第。

評価は☆。
歴史好きのアマチュアによる労作として、面白いんじゃなかろうか。
まあ、真相は、今でも藪の中、というのが本当のところかと思う。
新たな新発見の文書が見つかることを期待するしかない。
それまでは、我々アマチュアは勝手な想像をすれば良いのである。
そういうところが、むしろ歴史の面白さ、なんではないかなあ。