Single40'S diary

「40過ぎて独身で」の作者が、あっというまに50代を迎えたブログ

天皇が19人いた

天皇が19人いた」保坂正康。

戦後の混乱期には色々な人物が現れたのだが、本書はそれら人物を9人ピックアップしている。
もちろん、中には昭和天皇とか東条英機とか大物もいるわけだが、表題作になった自称天皇は面白い。
中でも有名なのは熊沢天皇であろう。
南朝の正統な末裔を自称するこの人物に日本中が大騒ぎとなり、ときの皇室が認めた、などという尾ひれまでついた。
そのうち「熊沢寛道は分家で、本家はこちらである」と名乗る別の熊沢天皇が出現したりして、あれよあれよ、自称天皇が19人(笑)。
さすがに世間も呆れたのか、飽きたのかわからないが、そのうち消えてしまった、というわけである。
で、驚いたことに、本書ではその「自称天皇」たち何人もについて、理論的な裏付けをしたという市井の歴史家を取材しているのである。
藤原老は、独自に南朝史を研究する中で、その後継が途絶えずにいてもおかしくない、と考えるに至り、それらしい経歴を持つ人物が氏を訪ねてくるたびに、その理論的補強をしてやった、というわけだった。
いわば、自称天皇をもっともらしく見せるための参謀的な役割を果たしたらしい。
言うまでもないが、南朝はとっくに滅んでいる、というのが歴史的な通説であって、じっさいにそれを覆すだけの史料がない。
ということは、戦後ぞくぞくと現れた自称天皇は、すべてこの藤原老の妄執が作り上げた、とも言えるわけである。
さらに、時代的な背景もあった。
つまり、この「自称天皇」ブームを、ときのGHQがひそかに後押ししたからである。
「もしも、ヒロヒトのほかに天皇が現れたら、日本国民の天皇に対する考え方も変わるだろう」という目論見があったようだ。
しかしながら、どうも世情はGHQが意図した方向にいかなかったようで、GHQは早々に自称天皇に対する支援をやめている。


評価は☆。
歴史に埋もれた、たいへん面白い話である。
はっきり言えば、市井の一歴史愛好家の妄執が、時代のちからを得て、いかにもそれらしい「自称天皇」を作ってしまったということだ。
妄想だって、まったく馬鹿にできない、ということなのである。


さて、現在の日本国憲法では、天皇の存在は「国民の総意に基づく」となっている。
国民の総意があれば、別に男系でなくても良いではないか、というので「女系天皇容認論まで出ている。
しかし、これはおかしい。
だって、ほんとに「国民の総意」があるかどうか、わからんではないか。
つまり「国民の総意」を正しく掴み取るのであれば、「天皇総選挙」を行うべきである。
立候補制にして、さんま、たけし、タモリも立候補できるようにすればよい。これでこそ、きちんとした「国民の総意」ではないか。

で、実際にそうならない(だろう)のは、そこに厳然と「血統」という「伝統」があるから、である。
日本国憲法は「法の下の平等」を定めている。
皇室の存在が、かかる平等の理念に反する存在であるのは明白である。それゆえ「皇室廃止論」には、クリアカットな論理性があるのだ。
皇室というのは「平等」のなかで「例外」である。
なぜ、例外が認められるのか?
そりゃあ「伝統」があるから、に決まっている。ほかに、理由はない。
天皇という制度を、皇室が代々享受してきた権利と仮に考えると、憲法制定以前から存在しているのは明白である。
このように法律によらない権利では、すでに水利権の例がある。長年、先祖が水争いをして人がたくさん死んで確立した権利は、その後の河川法によらずとも保護される。
これを「慣行的水利権」といい、法による保護がなくても、権利があるのだ。実際に裁判すれば勝つ。そうしなければ、また水争いが起こるからだ。
皇室も同様であると私は考える。
今までの慣行に従う限り、それは「平等」の例外規定として、保護される対象になる。
しかし、もしも「慣行」を守れなくなったらどうか?
そのときは、例外規定そのものを廃するのが自然であろうと思うのだ。
新しくつくった制度は「慣行」ではない。「人間みんな平等なんだ」という原則に、あらたな例外を付け加える必要はないだろう、と考える次第である。