Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

ニーチェの警鐘

ニーチェ」の警鐘 適菜収。副題は「日本を蝕む「B層」の害毒」

 

このコロナの昨今なので、コンサートはどこも中止。
私は休日にコソコソと出かけては玉石混淆なオケを聞くのが数少ない楽しみであったが、それも当然ダメである。
で、この連休は、家でじっくりとオーディオを鳴らして自宅コンサート(気分だけ)三昧をやった。
その中に「ツァラトウストラはかく語りき」なんていう、やたら仰々しい交響詩もあって、そういえばニーチェだったなあ、と思い出した。
ニーチェも近年では、実は梅毒でおかしくなったタダの危ないおっさんではないか、とか、献身的な妹が兄貴の原稿を編集して、なんとか読める形にしたんではないか、などと言われているようだ。
まるで電化マイルスとマーカス・ミラーみたいである。本人は、延々と思いの丈をセッションしているだけだったりするのだ。まあ、そんなことはあるまいが。
で、そんなわけでニーチェが引っかかっていたところに、タイトルに「ニーチェ」とあるので読んでみた。

 

で、タイトルから分かる通り、B層批判=大衆社会批判の本なのであるが、しかし、大衆自体を批判した本ではない。
大衆が愚かであるのは、誰だって知っている。わざわざ書物で教えてもらうほどの話でもない。
しかし、現代では、その大衆を先導している連中まで、大衆と同レベルになってきた、これは由々しい事態ではないか、というのである。
そのやり玉にあげられているのが小泉であり、大失敗した民主党であり、はたまたその民主党にあっさりと政権を奪われた馬鹿な安倍や麻生である、といううことになる。
著者は、政治だけではなくグルメ批評からJポップまで、B層のおかげで大迷惑であると切りまくる。
そして、実は大衆社会の根源は、実は民主主義にあり、民主主義というものはキリスト教の変質したもの、という指摘をする。
そこでキリスト教批判のニーチェとつながる、というわけである。


評価は☆。
軽快で断言調の筆致は、たぶん意識してのものだと思うが、軽妙さもあって面白い。
民主主義とキリスト教の関連については、新鮮な指摘だったと思う。
ただ、単なるクラシック好きなオヤジとしては、ちょいと違和感を覚えるのも事実。
というのも、クラシック音楽というやつはバッハを持ち出すまでもなく、なんでワーグナーがあんなにイケナイ魅力だといわれているのかも、根本にはキリスト教があるのである。
しかし、このキリスト教が日本人にはわからない(と言われている)
したがって、日本人がいかに激賞しようが、根本のところで、西欧人が感激するのと同じレベルでブルックナーを鑑賞できない、と言われているのである。
同じような話は、ドストエフスキーの小説にも言えるのだが(このあたりは小谷野敦が鋭い指摘をしている)根本的なキリスト教価値観のわからない日本人は、ドストエフスキーの凄さがよくわからないわけだ。
それが、戦後民主主義だけが(大衆に)キリスト教的影響(もちろん悪影響)を与えた、というのはなあ、と思うのである。

個人的にいえば、日本の大衆社会の原点は、むしろ仏教の浄土思想にあるのではないか。
草木国土悉皆成仏、である。
著者は「大衆社会がいくところまでいけば、動物の権利まで主張される」と指摘しているが、それを言うなら、本邦では犬猫のみならず草木まで成仏である。
仏教国といえば、日本以外はほとんど上座部仏教しか残っていないのだが、日本だけが大乗である。
「誰でも仏になれる」
これがえんえんと続いたのが、やっぱり根本なんじゃないかなあ、と思うのだ。
大乗仏教と大衆主義とは、それこそ近縁だろうと思ったりする。
そうすると、ついには浄土真宗の「悪人なおもて」までいってしまい、大衆社会をむやみに否定できなくなるのだ。
だって、私も大衆だもんねえ。