Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

破られた対称性

「破られた対称性」佐藤文隆。副題は「素粒子と宇宙の法則」

量子力学は、もはやとっくにSFを通り越して、多元宇宙だの分岐だのダークマターだのホログラフィック理論だの、とにかく大変なことになっている。
ブラックホールでドキドキしていた時代とは、もう隔世の感がある。
今年のノーベル賞は日本人受賞者なしで終わったが、2008年は南部陽一郎小林誠益川敏英の3氏が物理学で独占した。
その「小林-益川理論」は、実は日本の物理学の源流である湯川、朝永にちゃんとつながっている。
時々、無性に最新物理のはじっこを知りたくなる癖があるので、本書を手にとってみた。

のだが、、、正直にいって、内容的にはもう手が出ないんだよね、これが(泣)
著者は、難解な物理学の説明を、数学の数式をなるべく使わないで説明しようとしてくれている。
しかし、なにしろ、物理学のその「言葉」の意味が、いちいち頭に入ってこない。なので、意味がとれないのである。
これはやむをえなくて、我々の日常使っている言葉とまったく共通点がない観念の世界をむりやりくっつけているので、どうしたって「なじみ」がないと意味が取れない。
数学的な概念と、実際の粒子加速器の実験によって発見された粒子の振る舞いが一致しているので、そうやって説としては確率しているのだが、もともと極めて抽象的な理論の産物である。
へたな先入観を持たれないように、ストレンジだのフレーバーだのという名前がついているのであるが、それが「意味がない」と言われても、シロウトはクォークのスピンといえばくるくる回るジャングルジムを想像してしまうし、フレーバーといえば何かの香水じゃないかと思ってしまうのだ。
つまりは、言葉の概念が先に入ってしまっているので、肝心の概念が分からない。
かといって、数式はなおのこと分からない。
つまり、こういう世界はガチで物理学をしっかり勉強した人だけが把握できる、とてつもない羨ましい神からの贈り物、とでも言うしかないんだろう。
例えば、ほんとに音楽をがっちり勉強した人は、同じ演奏を聞いてもシロウトが「なんとなくいいなあ」といったレベルではなくて、非常に深いところで味わうことができるような。
今の世の中、たいがいのことはカネを積めばなんとかなる、と思われている。
しかし、いくらカネを積んでもクラシックコンサートを深いところで味わうこともできなければ、最先端の理論物理学の世界を理解する(これは世界の実相そのものだろう)こともできない。
せいぜい、できるのは、美味い料理と酒を味わうこと、きれいなオネエチャンと遊ぶことだけか。
それはそれで楽しいけど、やっぱり浅いわねえ。


評価は不能
だって、理解できないんだから(苦笑)。良いも悪いもない。
この本をずっと持っておいて、少しづつ理解できるようになる気もしない。無理である。
ただ、益川さんが、なんであのように特異な人であるのかは、わかったような気がした。その昔、物理学の世界は「史的唯物論」すなわちマルクス主義哲学と一致すると信じられていた時代があるのだ。
そういうとき、そういう傾向の人々がたくさん物理学を専攻した。
で、マルクス主義ソ連という実験によって世の中としては「おおむねハズレ」評価で確立したのだが、彼らは忙しかったので、ソ連の実験についてはそんなに注意を払っているわけでもなかった。
まあ、浮世離れした学問なんだから、それは当然である。
よって、少し奇妙な(ストレンジだ)人がいまだ結構いる、というわけである。

だからといって、大学がべつに悪いわけではない。
そもそも学問は、世の中に役に立つとか立たないとか、基本的に関係ないと私は思っている。
役に立つ、立たないという話は「銭勘定」の話である。
銭勘定から離れているのが、本来の学問の尊さであろうと思うので、そこを論じること自体がゲスだと思うのである。
ただし、学問的に銭勘定を論じる経済学は例外で、ありゃほんとに学問なのか?私はつねづね懐疑的に考えているのだ。
ただの開き直りの理屈のように思えるのである。

なんだか、わけのわからない話になってしまった。
新書なんてスカスカ、まったくアホらしいと思っている人には「これを読んでみろ」という感じ、かなあ。