Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

ホームレス歌人のいた冬

「ホームレス歌人のいた冬」三山喬

リーマンショックを引き金として派遣切りが横行し、年越し派遣村ができて麻生内閣は立ち往生。
思えば2008年はたいへんな年であった。
その2008年に、レベルの高さで知られる朝日新聞の短歌欄「朝日歌壇」に、公田耕一なる投稿者の歌が連続入選を果たす。
住所欄に記されていたのは「ホームレス」であった。
短歌のレベルの高さとともに、この住所「ホームレス」という標記がどれほど読者の心を捉えたか、言うまでもない。
公田氏の歌は、高い教養を感じさせるものであった。
朝日歌壇の読者、選者も交えてたいへんな関心を呼んだのである。
彼の歌の風景から、おそらく彼が横浜のドヤ街に住んでいることは間違いない。
結局、公田氏は朝日歌壇に9ヶ月で28首という記録的な入選歌を残して消える。
著者は、フリージャーナリストとして、この公田氏の足跡を辿ろうという企画を思いつき、朝日新聞の旧知の記者を理解を得てこのルポを書いた。

あまりに衝撃的なデビューだったので、この公田氏は「架空の人物」である、つまり誰か一般人がホームレスを名乗って、短歌を投稿したのではないか?という推測は当時からあった。
著者は、公田氏の実在を含めて丹念に取材をする。
実際にホームレス体験までして取材した著者は、現実のホームレスをめぐる環境の厳しさから、架空人物説かもしれないと思いはじめる。
ところが、ついに衝撃的な証言をドヤ街の支援センターの職員から得ることになるのである。
この取材をした場面が、本書の白眉であろう。
その職員は「電話があった」というのである。
職員は、善意から支援センターのホールに、小さく張り紙を出したのである。朝日歌壇に採用されると僅かな記念品が贈られるし、彼あてに手紙も届いたりする。
しかし、ホームレスで所在が不明であるので、当然に受け取ることができない。
職員は、代わりにそれらを受け取って渡してあげよう、と窓口になることを思いつき「ご連絡ください」と小さな張り紙を出した。
すると、職員あてに電話があったのである。
「今は、表に出る勇気がでない」
ということだった。職員も、そういうケースはよくあるので、特に不審に思わなかったという。
これはたいへん重大な証言である。
つまり、ドヤ街の支援センターの中に、わざわざ外部から人が訪ねてくることは、ほぼないからだ。
支援センターの中には、ホームレス向けのシャワーや理容など各種のサービス施設がある。それらを利用するためにホームレスが集まる。
公田氏は、やはり実在したに違いない。。。

残念ながら、著者はついにホームレス歌人を発見することがなかった。
著者の推論は、私には説得力のあるものだと思う。
体を壊して医療保護を受けた公田氏が、今でもお元気であることを心から祈るしかない。


実に興味ふかいルポである。評価は☆☆。
「親不孝通りと言へど親もなく 親にもなれずただ立ち尽くす」
心にせまる歌である。

個人的にも2008年は忘れられない年である。
上場企業役員という立場を、私自身が失うことが決まった年でもあった。
会社はファンドに買収され、私のような役員はいらないのである。どこにも行き場はなかった。
世間はたいへんな不況であった。
ただ立ち尽くす、そんな生活が始まろうとしていた。

あのとき、表現という力をもったホームレス歌人が確かにいたのだなあ、と思う。
そのギリギリの状況で、私は表現の力はなかった。ないということを痛感した。
単に、読書を楽しんで「消費」しているだけの人間だとわかった。
そうなってみると、それまでにやったコンピュータの仕事しか、残っていなかった。それは今になってわかったことでもある。

苦さや苦しさが2008年にはある。
戻りたくなく、やり直すこともできない。
「日産をリストラになり流れ来たるブラジル人ととなりて眠る」
やっぱり強いひとだと思う。