Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

島燃ゆ 隠岐騒動

「島燃ゆ 隠岐騒動」松本侑子

隠岐島は、かつて後醍醐天皇が流されて鎌倉幕府打倒のため脱出されたことは有名だし、その前にも後鳥羽天皇が流されている。
後鳥羽天皇は、そのまま隠岐で亡くなられた。そのため「怨霊」となった、とされる。
後鳥羽院は、もともと顕徳院という名で諡号されていたらしい。ところが、北条泰時の突然の死亡に始まり、次々と幕府中枢に不審死が続発。慌てた鎌倉幕府は「徳」という字を当てると怨霊になるというので、顕徳院をやめて後鳥羽院にした、という逸話がある。

その隠岐島だが、今でも海産物の豊かな島というイメージだが、もちろん江戸期もそうであった。
それに加えて、実は日本海の国内交易路の中枢にあったようで、富農たちは相当に豊かであったようだ。
物が集まれば文化も集まるので、島には今でも江戸期の書物が大量に残っている。
そして、幕末といえば「水戸学」の時代であった。いわゆる国学である。
かつて2人の天皇をお迎えした隠岐は、十津川と並ぶ勤王の里と呼ばれていた。
その隠岐で、幕末に出雲版の役人を追放、70日間の自治政府が誕生した。それが「隠岐騒動」である。
私の故郷から隠岐はさほど遠くはないのであるが、それでも、こんな話を聞いたことはなかった。
思えば、戦後教育の中で「農民の蜂起による自治政府」は良くても、その思想が「勤王思想」では、子どもたちに教えるのは都合がわるかったのではないかと思う(苦笑)。
この隠岐騒動は、てっきり味方してくれると思っていた明治新政府が(事実、味方した役人もいた)あっさりと裏切ったことで、出雲藩による武力鎮圧の結果を迎えてしまう。
明治新政府が裏切った理由は金である。
新政府は金がなかったので、隠岐をもとどおり出雲藩預かりとする代わりに、多額の税金を差し出させた、といううわけなのだ。
小御所会議もそうなのだが、この時期、やっぱり金が人を左右する、、、て、今も変わりはないわねえ(苦笑)


評価は☆☆。
かなり面白かった。「知られざる歴史」を丁寧な取材とともに発掘してくれた著者に感謝する。

巷間よく言われるのは「明治維新のとき、そもそも一般大衆は天皇のことなど知らず、まったく意味がわからなかった。天皇について庶民が知ったのは明治政府が学校を作った後である」というようなことが言われる。
また、名字についても「江戸時代は一般庶民に名字はなく、明治維新で適当につくった」などとも言われる。
しかし、実際には隠岐騒動が起きている。
一部の富農などの知識階級において、いわゆる水戸学、国学思想というものは、相応の広がりを持っていたのではないかと思うのである。
また、天明の大飢饉のおりには、困窮した民衆が京都御所の周囲を千度参りして救済を願う「御所千度参り」も起きている。
この事態を重く見た光格天皇は、御所で栽培中のリンゴ3万個を配り、九條家や鷹司家も握り飯を配ったという。
結局、幕府が救恤米1500俵を放出し、事件は落着するのだが、「禁中並びに公家諸法度」に反する事態であった。
民衆だって、天皇の重みを知っていたのである。
ちなみに、名字の話は寺の過去帳を見れば良い。
私の場合も、当時の屋号ともども(材木屋を営んでいた)しっかりと書いてあった。
学校の先生の話でも、疑うのは悪いことではない。
特に、かんたんに確かめることができる場合には、そうだと思う。
その挙げ句に「地球平面説」とかを信奉するようになるやつもいるので(苦笑)モノには程度というものがあるんですがねえ。