Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

新陰流 小笠原長治

「新陰流 小笠原長治」津本陽

 

一昨日、病院の家族控室で読んだ本。ま、肩のこらない歴史モノで。

小笠原長治は戦国時代から江戸初期にかけての剣豪である。真新陰流の創始者なのだが、一般人は柳生家の「柳生新陰流」のほうが有名。
将軍家指南だし、五味康祐の小説でも売れた。しかし、新陰流そのものは小笠原のほうが本流らしく、柳生新陰流は支流であるようだ。

この小説では、長治は武田家の武将、小笠原長忠の次男として生まれる。父がなくなった後、兄が家督を継ぐ。幼少時の長治は極度の臆病であり、兄に「敵が押し寄せたら最後は自分で自分を守るしかない」と言われて武芸の稽古に邁進する。
小笠原家は徳川家に仕えていたが、武田勝頼に攻められる。城方はこれをよく防ぎつつ、家康に援軍を要請。家康は「すぐに行く」と返答したものの、実際には出陣せず。見殺しにされた小笠原氏は武田に降伏し、高天神城を武田に譲り渡し、代わりに興国城を貰う。
興国城のほうが領内が豊かなので最初は皆喜んだが、今度は武田勝頼が織田徳川連合軍に攻められる。
武田は負けると予測した兄は興国城を脱して北条氏に走る。北条は織田徳川に対立していたので、小笠原氏は直臣として取り立てられた。
ところが、ここで今度は北条氏が織田徳川に攻められる。
小笠原氏は、家康が城を見捨てたことを知っているので、家康にとっては汚点を知っている人物ということになり、降伏は許されない。
小笠原一族は、今度は奥山郷の奥山休賀斎を頼ることにしたが、ここで兄は追手にかかって死んでしまう。
ひとり奥山休賀斎のところに逃げ延びた長治は、剣術の稽古に明け暮れる。ここで新陰流を伝授される。
やがて、同門の門人が「琉球に変わった武術がある」というので、その道も極めようと思いたち、門人ともども琉球に渡る。
そこで明の国の達人のカンフーの技(双節棍、今で言うヌンチャク)を習い、そちらでも無双と言われる腕になる。
双節棍の技を身に着けて一対一ではいかなる相手にも不敗という腕になり、やがて本国に帰って新陰流の道場を開く、、、となる。


剣豪というと、すぐに上泉信綱とか柳生家の面々を思い浮かべてしまうのだが、この小笠原氏は初めて聞く。
だが、考えてみれば、中学時代に練習した弓道が「小笠原流」であった。関係があるのか調べたが、弓道の小笠原氏は京都小笠原氏が発祥らしく、その子孫が信濃小笠原氏となっている。遠い先祖あたりであろうか。

評価は☆。
それなりに面白く読めた。津本陽なので、文章が練れている。同じ題材を書いても、そこらの二流小説家だと文章が下卑てくる。
不思議なもので、文章には品が出る。下品な文章は、読み手に不快感を与える場合があるのだが、品の良い文章はそれがない。
下品な文章を書いてしまう書き手は、まさか自分の文章に品がないとは思っていないと思う。
プロの作家が書く文章には品があるのだが、そうでなければ多くの人に読んでもらうことが不可能だからだろう。
雑誌の新人賞受賞作品などを読むと、それがよくわかる。プロットやアイディアにおいては、もっと優れた作品が佳作になっていることが多い。文章に品がないのである。
おそらく、選外の作品だと、さらにその差は顕著であろうと思う。
剣豪作家の五味康祐は最初純文学でデビューしたが、商業的に苦しかったので、剣豪作家に転向した。
この本のあとがきで、津本陽もまったく同じ経緯であることを知って驚いた。
道理で品がある文章を書くわけだ。
その五味康祐は、文章修行のために、良いと思う文章をずっと模写したという。そうして、自分の文章の下品なクセをなくそうとしたのである。
今の作家で、先輩作家の文章を写す人がいるかどうかは知らない。
個性があるのは良いことだが、品がないのはよろしくないと思うのである。
個性があって品があれば大変よい。あの西村賢太氏だって、題材は品がなかったが(苦笑)文章自体は品があった。直截的な描写であってもである。
プロとアマの違いとは、意外にそういうところなのかもしれない、と思ってみたりしております。