昨日の帰路は最初はポツリともしていなかった。それが、途中からザーザー降りの大雨に。
たまりかねて、途中の小学校の大木の下で(ほとんど濡れなかった)ポンチョを取り出した。
100円ショップで「300円」で買ったもので、初めて使用したが、結構いい。
ほんとの「100円」というものも使ったことがあるが、あれは透明ゴミ袋の首に穴をあけて申し訳程度の袖をつけたような代物で、文字通り使い捨て商品だった。
300円は結構しっかりして、再使用に耐える。ただしポンチョの収納袋のほうはヤワですぐに穴が空いてしまった。なにか代用の袋を100円で探そうかと考えたが、それなら300円で再購入したほうがマシそうである。
まあ、ボロボロになるまで使うのが正解でしょうな。
で、雨中を走っていると、さすがにまだ9月なので寒くない。冬の氷雨に濡れながら走ったこともあるので(ハンドルを握る手の感覚がなくなる)楽勝である。
そんなことを思っていたら、ふと太田裕美の「9月の雨」を思い出してしまう。
年代ですねえ。
たしか「9月の雨は冷たくて」と歌っていたが、、、実際は冷たくないよねえ。
あとで調べたら、作詞は松本隆。
いかにもありそうで、実際は体験していない詩を書くのがこの人の特徴でしょうが、だいたい、優れた作詞家とか、あるいは作家でも、そういうものだろうと思う。
小学校で「実際にあったことを、ありありと、いきいきと書く」などと作文の時間に指導があったが、あれは間違っているなあと思う。古来、優れた詩も小説も、実は虚構である。あるいは「9月の雨」のように「話を盛っている」ので、わかりやすくいえば「法螺」である。
ほんとうにあったことでなくても良いので、面白い話を書きなさいというのが文学的に正しいと思うのだが、そうすると、子供たちが皆文学志望になってしまいかねん。
それは困るということであろう。
報告書など、事実を即物的に書くほうが、世の中の仕事では圧倒的に多い。
文学というのは古来、実際の役に立たないものと決まっている。役に立たないから、役立たずと言われてしまう人々の心を打つのである。
実業の世界で大いに辣腕を発揮している人が文学に親しむ理由もないし、仮に読んでいたとしても、真髄はわからないだろうと思う。
学校の作文指導がある意味で結実した文学は、西村賢太だけでしょう。
そんな「よしなしごと」を考えながら、ぼたぼたと水滴を垂らして自宅に帰り着く。
サドルの上では、大部分がこんな「つまらないこと」を思い出したり考えたりしている。実にくだらない。
こんなくだらない時間が、ほんとうに好きでたまらないのだ。