さすがに荘重で、立派な葬儀であったと思う。
トラス首相が聖書の一節を読み上げるのを見ながら、ふと疑問がわいた。
ちなみに、以前にもブログに書いたが、政教分離原則の源を遡ると、大英帝国の思想家ジョン=ロックの「信教の寛容に関する書簡」にいきつく。
当時の大英帝国は、英国国教会もあればカトリックの人もいるし新教(プロテスタント)もいるわけで、一口にキリスト教といってもいろいろな宗派が出ていた時期であった。
ご存知のとおり、英国は国王が離婚したいからという理由でカトリックを離脱して英国国教会を立ち上げるわけだが、そうすると英国民は全部英国国教会を信じなければいけないのか?という問題が出てくる。
ロックはこれに対して書簡を英国議会に出し、個人の信教の自由は(自由な市民の前提で)当然に守られるべきであり、国はこれに関与するべきではないとした。
つまり、個人の信教の自由と、その自由を保証するための国の不関与つまり政教分離となるのである。よって、政教分離とは「信教の自由の相補的規定」となって、個人の信仰を守るために国は特定の宗教に偏るべきでないということになる。
で、大英帝国は、国が特定の信仰を国民に勧めない限り問題ないという立場を取っているのである。
英国女王は英国国教会の信者であり、よって葬儀は英国国教会の儀式によって行われる。しかし、国が国民に英国国教会を信じるように勧めるわけではない、ということである。それなりに理屈は通っていると思われる。
これが例えば、日本であればどうか。
例えば安倍元総理の国葬が知恩院で行われて、岸田首相が「南無阿弥陀仏」と唱えたらどうなるか?ということである。
英国流に言えば、問題ない。べつに国民に浄土宗を信仰しなさい、とすすめるわけではないからである(安倍元総理の宗派は浄土宗の由)。
しかし、日本だと「政教分離はどうなる?」という非難轟々になるような気がする。
実際に、安倍元総理の国葬儀は、無宗教形式で行われるということである。
これが、私にはよく理解できないのである。
無宗教に、そもそも葬儀が必要であろうか?という疑問が消えないからである。
いわゆる「お別れの会」だということであろうが、あれもへんなものである。
無宗教であれば、死んだ人に魂はないわけである。
そうすると、「お別れの会」を故人のために行うわけではない。対象者は「無い」のである。
まだ生きているご遺族、あるいは友人たちの思い出話をするための会だということになる。それで慰められるのであればやってもいいと思うが、やらなくてもいい。
私は安倍元総理の国葬については「やってもやらなくてもいい」と思っていますが、その理由がこれである。どうでもいいのだが、しいて言えば、思い出話をする会に公金を支出するのはどうなのか?という批判にも一理ある。
たくさんの国民が思い出話をしたいのであれば、それはそれで、公金を使っても問題はないということになる。
ようは、その匙加減の問題であり、はっきり言ってどうでもいい。
私の考えでは、葬儀と宗教を切り離すことはおかしいと思う。
亡くなった人にも魂魄があると仮定を共有しないのであれば、葬儀は成り立たない。
亡くなっても、それは「死んでいる」だけであって、人である。
安倍元総理であれば、阿弥陀様がお迎えになって、極楽浄土に行かれたはずである。
葬儀はこの世とのお別れであり、旅立ちでもある。
この考えかたに立つかぎり、主人公はあくまで亡くなった御本人である。
生前のお仲間たちが集う同窓会(またの名をお別れの会という)は、それはそれで微笑ましいが、しかし、葬儀ではない。
私の葬儀は、そういうわけで、坊さんが一人いて読経してもらい、引導を渡してくれたらそれでいい。仏弟子でいたいから、戒名はほしいが、一番やすいやつでいい。立派な人間とは言えないからである。
親族も友人も別に来てほしくない。私は一人で仏様に向かって「いろいろすいませんでした」と言わないといけないので、別にみんなに見送られなくていい。
あとは焼いておしまいである。
そんなものだと思っている。