Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

うつろや軍師

「うつろや軍師」箕輪諒。

 

織田家の家臣団といえば「木綿藤吉 米五郎左 かかれ柴田に のき佐久間」というわけで、これに滝川一益明智光秀を加えれば六人衆が揃うわけである。

木綿藤吉は、木綿のように使い勝手が良いという意味で、藤吉郎は羽柴秀吉

米五郎左は米のように不可欠という意味で、五郎左衛門こと丹羽長秀を指す。

この丹羽長秀は柴田や佐久間のように戦専門ではなく、あの安土城の建築を行ったのも丹羽長秀である。

安土城を建てながら一向一揆と戦ったりしているわけで、まさに八面六臂に活躍。

のちに秀吉が天下をとる際には、清州城で秀吉支持の発言を行い、大勢を決定づけた。

この功によって丹羽長秀は秀吉から124万石もの大領をもらうわけだが、ほどなく病死。死の床を秀吉の前に運ばせ、我が子長重の将来を託したと言われる。

しかし、秀吉は長秀の死後、長重の戦ぶりが先代に似ず不出来だという理由で、領地を大幅に削り、なんとわずか4万石にしてしまうのだ。

この減封の原因となったのが秀吉の北条攻めにおける山中城の戦いで、秀吉方は大苦戦している。小説の冒頭は、この山中城の戦いにおける主人公、江口正吉の苦闘から描かれる。

江口のあだ名は「うつろや」である。漢字で書くと「空論屋」となる。空理空論の「空論」を訓読みしたのが「うつろ」であって、理屈はいかにも通っているが実際には役に立たぬ、ということである。

江口が立てた戦略は実際の情勢を踏まえたものではなかったため、ついには丹羽家の大減封を招くことになってしまう。

しかし主君、丹羽長秀は江口の「うつろ」はその後、必ずものになると考えており、彼を筆頭家老にして後事を託す。

その子、長重は坊ちゃん育ちの人の良い男であるが、実は冷静な判断力は父親以上の素質があり、江口の補佐を得て、どん底の状態に落ちた丹羽家を再び蘇らせることになる。

関ケ原の戦いで西軍に与した丹羽家はいったん取り潰されるが、飄々とした長重の態度と、敗北を事前に予測して他家に家臣を転職させたことが力となって、1万石の大名として再興を許される。

しかし、しょせん少大名で寄せ集め勢力の丹羽家は、大阪の陣での評判もはかばかしくなかった。そこに、老いた江口が現れ「もう一度お仕えしたい」と言う。長重はこれを許す。

江口の渾身の策は見事に当たり、二代将軍秀忠に評価されて加増されるきっかけとなったのである。。。

 

江口正吉は同時代の軍師としては有名であるものの、評判はあまり良くない。武家の嘘は兵法だが、あまり極端にやるとやっぱり評価を落とすのである。一部には、江口のせいで丹羽家は没落したのだ、とも言われる。

しかし、作者は別の視点をもっており、むしろ江口のおかげで丹羽家は再興できたのだ、というのである。

 

評価は☆☆。

これは、おもしろいじゃないの。

 

著者の言う通り、丹羽長秀が秀吉から124万石もの大領を貰ったとき、すでに丹羽家の没落は決定したと思うのである。

もともと丹羽は秀吉の同僚である。その元同僚のおかげで天下をとった、と言われることは、天下人になった秀吉にとってどうだろうか?煙たいと思うはずなのである。

丹羽のおかげで天下をとれたのは事実なので、人々が納得するような領地をやらねばならない一方で、「いつかは」と秀吉は思っていただろう。

跡継ぎの長重には気の毒なことであった。

しかし、長重の偉いところは、それで腐ったりやけになったりした形跡がまったくないことである。

そして、父の時代の軍師である江口を重く用いて、大軍である前田家にもひと泡吹かせている。名将のいわれる素質は十分にあるだろう。

 

人の本性は、おうおうにして、不遇のときに現れるものだと思う次第。

調子の良いときは、誰だって立派なことを言い、そういう行動もできる。

没落したときが人間の本性である。

そういうわけで、私は成功者が語る講演のたぐいは一切信用しない。

人生は棺覆いて定まるというのは、そういうことだと思うのである。