中共の江沢民元国家主席が亡くなったそうである。実に96歳の長命であった。
この人は鄧小平に抜擢されて出世街道を駆け上がった人である。
しかし、実はアキレス腱も抱えていた。若い頃は上海にいて日本語はペラペラであり、旧日本軍の協力者だったのではないかという疑惑があった。
もっとも、韓国ほど「親日派」イコール罵倒というほどではない(かつての中共は)。
しかし、軍に協力した(つまりスパイである)となれば、これは話が別である。
折しも、鄧小平は「社会主義市場経済」を掲げて「早く豊かになれるものは、早く豊かになってよい」と、事実上の資本主義経済の導入を宣言した。
これで支那は経済成長路線に乗るのだが、問題は、今まで「全国民が平等な社会を実現するマルクス主義国家をつくる」といって国民を説得していたのに、その大義名分が使えなくなることだった。そこで、江沢民が唱えたのは「反日」であり「永遠に言い続けなければならない」共産党は反日で支那の独立を取り戻したのだという反日路線だった。実際にはご存知のとおり国民党が日本と戦い、共産党は逃げ回っていただけだったのだが、子供の教育ではまったく反対のことを教え込んだ。
先頭に立って反日を叫ぶ江沢民は、自らの旧日本軍協力者疑惑を払拭するアリバイづくりもあったと見る。
日本訪問時には宮中晩餐会で人民服を着て(それまでは儀礼上で礼服を着ていた)天皇陛下に向かって「日本人は歴史に学べ」と説教した。
その江沢民を小渕首相は3000億円の円借款という土産を持たせて平身低頭して見送った。江沢民は帰国して意気揚々であったと伝わる。
バブル崩壊で経済をまったく浮揚できない小渕は、支那以外に成長できそうなネタを持っていなかった。あとはカブを持って東証で踊っただけだ、このひとは。
反日路線は小泉政権に至ってついに爆発した。小泉純一郎の靖国参拝を巡って、これに激しく反発する中共の江沢民と、曲げない小泉の確執が発生。支那ではあちこちで反日デモが起こる騒ぎとなった。
小泉首相は「国のために生命を失った人々に対して哀悼を捧げるのは当然だ」とし、さらに「日本国の首相が日本のどこに行くか行かないかを、外国の首脳から指示されるいわれはない」と反発した。
当時、まだ日本は世界第2位の経済大国であり、小泉改革のもとで日本経済は浮上し、支那には改革開放路線で巨大な需要が生まれて「政冷経熱」といわれる状況が出現した。
その後、2010年に日中の経済規模は逆転し、今や支那は日本の倍以上の経済規模を誇る。もう反日デモは起きなくなった。反発するだけの価値もなくなったのだ。