Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

飲食テロがことさら不快な理由

昨日の話題につづきますが、非常に飲食テロには義憤を覚えるのです。そのうち、吉野家の紅生姜が個別包装になったり、小諸そばのネギ取り放題が中止になるのではないか。あるいは、丸亀製麺の天かすが廃止になるか。いずれ、そうなれば、直接的に私は被害を被るわけで(笑)こりゃ義憤を通り越し、大いなる憤激になるでしょう。

ま、今後の成り行きは(悲観的ですが)さておき。

 

どうして飲食テロに対して私はことさら嫌悪感を持つのか。考えていて、ちょっと思い出したことがあります。

 

昔、五味康祐のエッセイを読んでいて(たぶん「音楽巡礼」だったか)こんなシーンが記憶にあるのです。

当時、売れない作家だった五味さんは(芥川賞を受賞したものの、その後の作品で泣かず飛ばず)どうにか校正の仕事をしながら、練馬の借家で夫婦二人住まい+猫で糊口をしのいでいる。昼間に校正をやり、夜に小説の執筆をする。すると、夜中に腹が減る。空腹に耐えかねて、食器棚に奥さんが明日の菜を残してあるのを見て、自責の念にかられつつ、やっぱり腹が減っているのでおひつのご飯をよそってしまう。すると、足元で猫がなく。赤貧洗うが如き生活である。猫も空腹なのです。五味さんは、貧乏でも自分は猫の主であると思い、彼女に(雌猫でした)メシを(おそらく、ねこまんま)を与える。そのとき、五味さんは「メシを食わねばならない悲しみ」を思い、ものを食わねばならぬという一点で、人も動物もわかりあえるであろうと綴っています。そして、食わねばならぬ、その悲しみを書かない文学はしょせん偽物だと言い切るのです。

 

人も、猫も、食っていかねばならぬ。そこに、生の悲しさと儚さといじらしさがある。その心持ちがあれば、どうして食べ物を粗末にすることができましょうか。

 

くだんのスシロー少年は「動画を拡散するつもりはなかった」と述べているようです。論外の弁明である(怒)。

動画が拡散して世の指弾を浴びることに至ったのは事実であるが、その前提として、食うことに対する真摯さがない。これは、生を軽んずることと同根ではないかと思うのですね。犯人の少年の父親は、本人は反省していると述べているようであるが、反省する視点が違う。動画が拡散したことを反省するのではないと考えるのです。

その行動は、大きく日本の大衆食堂の文化を傷つけたわけでありますが、ことはそれにとどまらない。そうして「生活」「食うこと」そのものを見下した行為をしたのだ。

これが私の怒りの核心です。

 

飲食店テロの下手人どもには猛省を求める、、、が、こんな手合に限って本当に反省することは少ないでしょうね。。。