Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

「いただきます」は禁止?

世の中にはバカ親もいるもんだ、と思ったのが最初の感想。

http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-305.html

早い話が「小学校で給食の時間に『いただきます』を言わせるのは宗教教育だからやめてもらいたい。だいたい、給食費を払っているじゃないの」と言った親がいた、ということである。

ところが、考えてみると、この親がまんざら馬鹿だといえないことに気付いた。
つまり。
「いただきます」は、本来、仏教の僧侶が食事の前に唱えていたのが一般に普遍化したらしい。「生かされている私」という深い自覚は、仏教思想に基づいており、それを「いただきます」と感謝しているわけである。とすれば、これは宗教的な意味がある行為だということになろう。
「すでに道徳である」という反論も、もちろんあり得る。しかし、このような習慣を持たない外国人からすれば、それはやはり「宗教的行為」だと見られても致し方ない面もあろうと思う。とすると、最近の若い親が同様の見解をもったとして、別段不可思議とは言えないに違いない。
「生かされている自分」という自覚がなければ、自分が食うために命をとった豚や鳥、魚や植物に対して感謝はしないだろうな、つまるところ。実際に、キリスト教では感謝する対象は「神」と「人」だけである。地の物は食われるべく、神がつくりたもうた。神に感謝するのは宗教であり、人に感謝することについてはカネを払っている、とこの親は言いたいのであろう。むしろ「私は客よ!」とでも言うのかもしれん。まあ、理屈は通っている。
また、戦時中においては「兵隊さん、いただきます」と唱えたことを持ち出す人もいるやにしれぬ。

憲法20条においては、宗教教育をしてはならないと定められている。上記の見解によるなら、公教育たる小学校で「宗教教育」を行うことであるから、憲法違反だというのであろう。この指摘をした親は正しい憲法解釈であると確信しておられるのだろうね。はー。

この「いただきます論争」は、日本人の文化としての宗教感情という点で問題になっているのである。つまり、そもそも民族にとって「文化」と「宗教」を分かつこと自体が非常に不自然なことである。文化は認めるが、宗教はいけませんと言っても、実際の生活の中では区別ができるもんではない。もしも「宗教教育をしない」を徹底するならば、それは「文化」の継続を根本的に断ち切る以外に方法はない。
考えてもみよ。
お正月もいけない。バレンタインもいかん。桃の節句端午の節句もいかん。七夕もだめ。お盆もってのほか。お月見もだめ。建国記念日とんでもない。クリスマスは何をかいわんや。大晦日もなし。
そういう教育をすれば、完璧であろう。ただし、どんな「日本人」ができるかは知らない。

そもそも、宗教教育の禁止って、そういうことじゃないと思うんだが。
「いただきます」を言うときに、「私は天理教ですから天にまします我らが父よ、と言いたいのです」「私は無神論なので唱えたくありません」を認めて、個々人の言っても言わなくても良いしどんな唱え方をしても良いというのが「信仰の自由」である。しからば、国はこれを保証するために、「浄土真宗大谷派じゃなきゃいけません」とは言わない、のが政教分離のはずである(相補的規定)。国が宗教的な行為をいっさいしません、じゃなくて、個人の信仰の自由を侵しません、強制しません、特定の宗教を優遇しませんということである。それが世界の一般的な「政教分離規定」のはずなんである。

ただなぁ。相手が子どもだからなぁ。そりゃまずい、一切まずいという声が出るんだろうなぁ。ああ。
それに憲法だからねえ。憲法を守らぬ奴は、保守反動、右翼というわけなのだろうなぁ。

「いただきます論争」みたいな、ある意味ぶっとんだ議論が飛び出るのは、日本がそれだけ言論が自由であり、宗教的にも寛容であることの証左のようなものなのかもしれない。それは、もちろん、大東亜戦争までの「歴史的反省」という奴に基づいているわけだろうな。

だから私は、戦争をしたわけでもなんでもない今の子どもとその親の世代に「歴史的反省」をさせるのは「差別だ」と言うんだよ。本人には責任のないことを反省させるから、おかしなことが出てくるんだよ。それこそ、すべての根本的な問題なんだよ。これは明らかに「日本人として育つ」文化を「日本に生まれた」という「出生」のゆえに「差別」されて育てられている子どもの話じゃないか。

「日本人って、そんなに卑屈じゃなきゃいけないんですか?僕はなにもしていないのに!!」

こんな教育で育てられてしまう、子ども達がとても心配だ。