22年目の告白。副題(私が殺人犯です) 浜口倫太郎。
主人公は出版社勤務の30歳の女性編集者、未南子である。
ある日、いきつけのバーで、素晴らしいイケメン男性から、読んでほしいと原稿を預かる。その原稿を読んでみると、1995年に話題になった東京連続殺人事件の犯人の手記だった。5人が、次々と縛られた家族の見ている目の前で絞殺された事件だが、迷宮入りし、時効を迎えたばかりだった。
原稿を読んだ未南子は、その迫真の筆致に恐怖し、一方で文章のすばらしさにも驚いた。小説として完成度が高い。
再びバーであったイケメンに、この原稿の著者である真犯人に会いたいというと、イケメンは言った「私が犯人です」
未南子が勤務する出版社は、暴露本や芸能人の告発手記を出版するのが得意であり、この犯人、曽根崎の本を出版することになる。
曽根崎は本の出版目標を100万部ではたりない、200万部ダブルミリオンだとぶち上げ、精力的にメディアに出演しはじめる。マスコミはこの前代未聞の作者に注目し、本人の美貌もあって人気が爆発し、一方で批判も増大し、社会現象となる。
そして、ついに日本でもっとも有名な報道番組に生出演したことをきっかけに、そのテレビ局の報道局に「証拠の映像」とともに1通の怪メールが届く。曽根崎は偽物だ、私が真犯人だというのだ。
そして、曽根崎と未南子は、報道番組に2度目の出演をし、自称真犯人と対峙することになる。果たして、曽根崎は真犯人なのか?
評価は☆☆。
率直にいって、相当に面白い。
著者は、もともとテレビの放送作家だそうだ。なるほど、と納得した。本書は、そのままテレビの2時間ドラマのシナリオみたいなものだし、ドラマが制作されたら、かなりの好評を博すだろうと思う。シナリオとして面白いからだ。
主流文学(純文学)と大衆文学の違いはどこにあるか。漱石の「吾輩は猫である」は、今は純文学であるが当時は新聞小説で娯楽小説と思われたようである。なぜなら、面白いからである。
面白いのは大衆小説や娯楽小説であり、面白くないのは純文学だというのは、ひどく乱暴な話であって、面白い純文学もありそうである。しかし、面白くない大衆小説というのはあり得るのか?はっきりいえば、面白くなければ大衆小説として売れないわけであり、あっという間に絶版されれば良いほうで、まず出版すらできないに違いない。
となると、話は簡単だ。
つまり、純文学だろうが、大衆文学だろうが、まず面白くないと小説としては存在しない。面白くない純文学が存在するのは、よほどのサムシングか伝統でしかないのだが、普通の作家では、その域にいけないからだ。にべもないが。
だから、面白さは小説として大事なのだが、その面白さを出すものは何か。ひとつは、本書のようなストーリーの面白さ、だ。これは確定だ。
そのほかの要素は何か。これが、実はいろいろある。いろいろあるから、人によって面白さが違うという話になる。
だけど、まず面白いお話であること。これは、大事なことだと思うのだなあ。