Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

100年の難問はなぜとけたのか

「100年の難問はなぜ解けたのか」春日真人。副題は「天才数学者の光と影」。

数学において、2000年にアメリカのクレイ数学研究所が「21世紀に残された難問」として7つの問題を発表した。
クレイ研究所は、この7つの問題を解いた人に、それぞれ100万ドルを進呈すると発表した。ミレニアム懸賞問題と呼ばれる。

1,ヤン-ミルズ方程式と質量ギャップ問題
2,リーマン予想
3,P≠NP予想
4,ナビエ-ストークス方程式の解の存在と滑らかさ
5,ホッジ予想
6,ポアンカレ予想
7,バーチ・スウィンナートン=ダイアー予想(BSD予想)

数学の門外漢である私には、これら7つの問題自体がまったく理解不能である。
「問題が解けない」のではなくて「問題自体を理解できない」のだ。
そして、このミレニアム懸賞問題のうち、ポアンカレ予想は解決した。証明に成功したのである。
この快挙を達成したのが、ロシア人数学者のグレゴリー・ペレリマンである。

クレイ研究所は100万ドルの賞金を進呈すると発表し、数学界最大の栄誉とされるフィールズ賞も与えられることになった。
フィールズ賞は、4年に1回しか受賞が行われず、数学界のノーベル賞とか、ノーベル賞以上に受賞が難しいと言われる栄誉ある賞である。
ところが、なんと、ペレリマンは、賞金も受賞も、すべて辞退してしまったのだ。
その理由すら、彼は説明していない。
生まれ故郷のサンクトペテルブルクで、母親の年金だけをたよりとし、安アパートで人目を避けるようにひっそりと暮らしている。
たまにスーパーマーケットに行き、そこでリンゴ1個を買おうとして、思い直して棚に戻すペレリマンの姿が目撃されている。
この天才数学者は、リンゴ1個を買うのに悩まなければならないほどの貧困なのである。
それなのに、彼は100万ドルの賞金も、数々の大学や研究機関からの招聘も、すべて断っているのだ。
世捨て人というには、あまりにも勿体なく、人類的損失とでも言いたいような有様だが、彼は今、なにか興味をもって研究中なのだという。
それが数学であるかどうかすら、周囲には知らせていない。
完全に世間との交渉を断ってしまったから。

ペレリマンは、わずか16歳にして最年少の数学オリンピック出場者であり、そこで満点を出したトップである。
まさに天才そのものである。
「10で神童、15で才子、二十歳すぎればタダの人」が世間の通り相場であるが、ペレリマンは違った。ずっと天才で有り続けているのだ。

ポアンカレ予想を説明することは難しい。我々には、数学者とちがって、ポアンカレ予想が問題にしている空間自体を想像することが難しいからだ。
普通の人間に「曲がった空間」を想像しろ、といってもねえ。
たとえば、あなたが紙ヒコーキを飛ばす。その紙ヒコーキは、永遠に飛ぶものとする。そうすると、紙ヒコーキはやがて、あなたのアタマの後ろにコツンとあたる!
次に、紙ヒコーキに、長い長い糸をくっつける。紙ヒコーキがあなたのアタマのうしろにコツンとあたったら、糸を回収する。すると、糸はするすると引っ張られて、綺麗に回収できる。
そのとき、その曲がった空間は、おおむね丸いと言える、というものである。
意味がわかりますかね?
たとえば、曲がった空間がドーナツのように穴が空いていたら、糸は回収できないわけだ。
外とうちの区別がない「クラインのツボ」のような空間だとすると、ちゃんと紙ヒコーキは自分のアタマのうしろにコツンと当たる。
しかし、糸は回収できない。糸で、ツボ自体を結んでしまうことになるから。。。
うーん、、、イメージだけで伝えるのは、とても難しいようだ。


評価は☆。
実に興味深く読んだ。
本書は、数学の素人向けに書かれた本なので、数式は一つも出てこない。(出てきても、何が何やら、さっぱりわからないに違いない)
ただ、ポアンカレ以来、この難問に100年間挑み続けた数学者の足跡をざっと辿っていく。
驚くような発想の転換がある。
そして、満を持してペレリマンが登場したわけだ。

おそらくだが、ペレリマンはこの難問に向き合うために、すべての余計なものを捨ててしまったのだろうと思う。
彼は、純粋に数学に向きあった。
しかし、人間がそこまで純粋になることは、大変危険が伴う。
私は思うのだが、おそらく、今の彼は、心の平衡を失った状態にあると思う。人智の限界を超えたときに、彼の心は「人である」ことから、離れてしまったのではないか。

それでも、ペレリマンは幸福なのかもしれない。
我々には想像もつかない、世紀の難問を解いた瞬間の思いは、いかばかりだっただろうか。
これこそ、ペレリマン本人でなければ、味わえないものなのである。

私も含めて、世間の人は、たいがいのものはお金さえあれば、手に入ると考えている。
しかし、きっと、貧困の中にあるペレリマンは言うだろう。
あなたに、どんなにお金があっても、私が証明を見つけたときの喜びを味わうことはできません、と。
味わいたければ、数学の天稟に加えて、集中して勉強するより仕方がない。
お金は、環境を作るだけは可能だが、あとは自分で努力するしかないのである。

それにしても、こんな聖僧のごとき境地に至るのは、到底無理だと思わずにはいられませんねえ。
仮に生まれ変わっても、たぶん無理かと。。。(苦笑)