Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

新自由主義の帰結

新自由主義の帰結」服部茂幸。

経済学の本は、色々な意見を言う学者が「自説こそは正しい」と言って他派を批判するが、その予言が当たらないという特徴があって(苦笑)私は「これは科学ではない」と常々感じていることである。
どの学者もそうなのであるが、つまり「あとからの説明はカンペキ」なので、これは宗教ではないか、と思うのである。
どの宗教も、あとの理屈はカンペキなのだからね。

そうはいいつつも、最近は新自由主義(と連なる形でのグローバリズム批判)が目立つのも事実である。
その批判の根拠が「ユダヤ金融資本の陰謀論」のような、ナチズム丸出しの「いったい、どうしてそんな大陰謀をオマエだけが知っているんだよ?」的なトンデモさんではなく、まっとうな批判をしている書ということになると、本書あたりは相当に「まっとう」なんじゃないかと思う。

第二次大戦後しばらくは穏健な金融資本主義が機能していたが、その後、80年代の米国でのレーガノミクス、英国でのサッチャリズムから「新自由主義」が政治に大きく取り入れられることになる。
新自由主義は、規制緩和、減税、金融の自由化、福祉の削減の一方で軍事ケインズ主義(軍拡には予算を増やす)的な側面も持ち、供給サイドを重視した政策でトリクルダウン(金持ちの恩恵が中間層から下にも及ぶ)を掲げる。
その結果が、ついにはリーマンショックサブプライムショックを招いた、と批判する。
サブプライムショックにおいては「金融自由化」を掲げながら、実際には金融機関の救済を政府が行い、しかもこれら破綻した金融機関のトップが高額な報酬や退職金をもらっていくのを、オバマ政権は止めることもしなかった。
「1%の富裕層が金を儲けるときは自由で、破綻したときだけ政府が税金で救済する」のは羊頭狗肉である。
著者の批判は鋭い。

新自由主義は、これらバブルの発生を分析する道具も持たないし、金融の不安定化への対策も持たない。
結局は政府が介入しなければ、金融市場は安定しない。

これらの兆候は、新自由主義らの主流派から見れば異端とされるポスト・ケインズ主義者たちは指摘していたことではないか、という。
新自由主義の帰結は「99%の国民の賃金の停滞、1%の富裕層への富の集中、供給サイドの改善とは家計に返済できない金を貸し付けて支出させること」だった、と。
新自由主義の「帰結」として、こう言われても反論はできないだろうということである。


評価は☆。
新自由主義に対する批判としては、おそらく現在の代表的な意見を集約したものと言えると思う。
ただし、私個人の見方とは少々異なる部分もある。

まず、冒頭に触れられるルーズベルトニューディール政策への評価であるが、実際にはニューディールが成功したとは言えないと思うのである。
米国経済は劇的に改善したのは、言うまでもなく第二次大戦が始まったことによる需要の急激な増加が主因である。
早い話が「戦争は、もっとも大規模な公共事業」なのである。
ルーズベルトが、人種差別主義者で、日本人を戦争に突入させる意図を持っていたことは否定のしようがないと私は思う。
レーガノミクスどころではない軍事ケインズ主義者は、ルーズベルトその人ではあるまいか。

公平に言えば、当時の大日本帝国統制経済も、軍事ケインズ主義に近い。
日本が支那で戦争を欲したのは、早い話が戦争景気で低迷する(東北では身売りが続出していた)国内経済の浮揚を願っていたからである。
「戦争は儲かる」というのは、その当時の日本人の共通認識であったはずだ。
飢えているところに、巨大公共事業=戦争は、たしかに効くのである。
餓死するか、それとも戦争するか、となれば、戦争のほうがマシと思う人が増えてくるのは当然である。
その戦争に言ってみたら、あろうことか餓死してしまう兵が続出したので、非常に哀れなことだと思うのである。

また、競争戦略のハイロードからローロードへの転換が新自由主義のもたらしたもの、という説にも疑念がある。
ハイロードとは、簡単にいえば高付加価値商品の生産から賃金の上昇、賃金上昇による高付加価値品の消費というサイクルが回る経済である。
ローロードとは、賃金を抑制し、低価格品の提供を行い、その結果また消費が停滞することである。
戦後日本はハイロードだったという。
それはそうだが、しかし、このハイロードからローロードへの転換は、特に新自由主義がもたらしたものとは思えない。
一番大きな変化は、技術革新の成果により、同じ性能の商品が安定して生産可能になったことである。
アナログ時代の商品は、高品質な商品生産には様々なノウハウが必要であった。つまり、ハイロード戦略が容易である。
しかし、デジタル時代に変わると、アナログと決定的に違うことがある。「コピーとオリジナルが同一性能」ということである。
商品生産の高度なノウハウは必要ない。「パクリ商品」でも、オリジナルと同じ性能ならば、当然に組み立てコストが安いところで生産したほうが有利である。
90年代に起こった技術革新=デジタル革命によって、いわば経営の「ルール」が変わったのだ。
日本企業だって、できれば自分たちによって有利なハイロード戦略で戦いたかったはずである。
そうすれば、年功序列制度も維持できて、安定的な経営が可能である。
それが壊れたのは、アメリカの真似をしたからではない。
技術革新が世界を変えたので、経営的にハイロード戦略が成立困難になったからではないか、と思うのである。

そうして、そういう視点からみると、ハイロードからローロードへの切り替えとか、いわゆるグローバリズムが「回避できた」とは、思えないのである。
デジタル革命ができてコピー商品の性能が劇的に上がる背景の中で、いきなりベルリンの壁が崩壊して安い労働力が市場に出てきたらどうなるだろうか?
誰でも、容易に想像し得る事態が起こっただけではないか、と思うのである。

そういう意味では、すべての結末を「新自由主義」という単一の思想で説明しようとするのは、法華経を信仰しないと外国が攻めてくるという宗教と同じではないか、と思うのである。
説明として成立するのは、それを信じる場合だろうか。

ま、私は何度も言いますが、経済学の素養はないので、単にテキトーな感想を並べただけなのであるが。
経世済民さえ実現できれば、それが立派な学問だろうと宗教だろうと似非科学だろうと別に構わんではないか、という話には、まったく異論がないですがね(苦笑)