Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

司法占領

「司法占領」鈴木仁志。

近未来小説。ときは西暦202X年。
日本の司法制度は米国流のロースクルール制度を踏襲し、カネがありさえすれば、司法大学院を卒業して大幅に緩和された司法試験を受けて弁護士となれる。
その弁護士のタマゴを、米国の大手弁護士事務所の日本支社が大量に採用する。
なぜなら、日本企業同士で結ばれる契約書が「正本が英語」となっており、「米国法に基づく」「裁判所の管轄は米国裁判所とする」と定められているのが主流になっているからだ。
当然、これら大手の日本企業を顧客にしているのは大手米国弁護士事務所であり、アメリカ人のパートナー弁護士の下に、日本人アソシエイトがついて、英語の契約書を日本語訳することになる。
彼らは、日本での司法試験を受けたあとで、米国の六法全書を叩き込まれるわけだ。

主人公の内藤も、そんなロースクール卒業生である。裕福な学友とは違って、彼は苦学しながら優秀な成績で卒業。
大手の米国弁護士事務所に就職する。
そこで待っていたのは、過酷な業務で残業、徹夜、休日出勤当たり前の世界であった。
競争は厳しく、落ちこぼれはたちまち肩を叩かれる。同期の中で厳しい競争を勝ち抜いて、やっとチーフアソシエイトに上がれる。
内藤はそんな中で優秀な業績を収めていくが、あまりに拝金主義的な上層部のやり方に批判的になる。
そこに、唯一の日本人パートナー弁護士から、このような状況になった米国の目論見を聞かされる。
国司法界は、まさに日本を植民地扱いしているのだった。
疑問を感じた内藤は、ついに事務所をやめる。
今度は日本人の小さな弁護士事務所に勤めるが、そこで待っていたのは、まとまりそうな話をわざわざ紛糾させて訴訟にもっていくという先輩弁護士のやり方だった。
そうでもしなければ、小さな事務所は食べていけない、というのだ。
内藤は、生活の厳しさを抱えながら葛藤する。
ロースクール時代の旧友に連絡をとるが、彼らはいずれも単なる事件屋に身を落としているのだった。
さらには、刑事事件を起こしてしまい、内藤に弁護を依頼する者まで現れた。
そこに、かつての米国弁護士事務所の事務職だった女性が助けを求めてくる。
米国人チーフアソシエイトにセクハラを受けたというのであった。
内藤は、かつての自分の職場を相手に立ち上がる。。。


なかなか、おハナシとして面白い。
特に、司法制度について若干の知識があれば、興趣が増すと思う。
評価は☆。

本書の見どころは、実は「解説」なのである。
そこには、米国が年次改革要望書で司法制度改革を要求してきた経緯が書かれており、これに警鐘を鳴らしているのだ。
で、面白いのが、その警鐘を鳴らしている政治家なのだ。
それは、なんと「前法務副大臣」の「河井克行氏」なのである。(笑)
もちろん、現在では「前法務大臣」である。

この手の「米国陰謀論」はなかなか人気があって、おおまじめに「TPP亡国論」なるものまで現れた。
貿易の世界を米国支配する陰謀だというわけで、その糸を引いているのはユダヤ金融資本だという話になっていた。
ご存知のように、そのTPPはなんとアメリカのトランプが加盟を拒否してしまい、日本とオーストラリア、東南アジア諸国で貿易ルールを策定している。
そうすると、トランプは「ユダヤ金融資本と戦う正義の男」にするしかないのだが、トランプの女婿はユダヤ人だし、トランプはイスラエルの首都をエルサレムだと認定してしまった。
ものすごいユダヤ贔屓であることは明らかである。
どう説明をつけているのか、もうバカバカしいので追う気にもならない。たぶん、ユダヤ金融資本とイスラエルは違うユダヤ系統だ、などと言うつもりであろう。
理屈と膏薬は何にでもつく(笑)

本書の警鐘も見事に大外れに終わっており、日本版ロースクールとして法科大学院鳴り物入りでスタートしたものの、卒業生が肝心の新司法試験にさっぱり受からない。
かなり難易度を下げたはずなのだが、それでもダメ。
よって、法科大学院卒の弁護士は増えず、米国大手弁護士事務所もまるで勢いがない。
「世界を意のままに操る」陰謀組織も、日本人学生の遊び癖だけはどうにもなりませんでした、というオチなのである(笑)。

ま、陰謀論はそんなものであるが、なあに、大丈夫。
なにしろ、陰謀論者は外れた予測の話などは決してしない。なぜなら、新しい陰謀論を撒き散らすほうに忙しいからである。
なんと前向きなやつらだ(苦笑)

そういうわけで。
本書を読んでも、別に国を憂える必要はない。
爽快な復讐劇を堪能して、スッキリすればいいのである。
幸せな話ですよ。

ニーチェの警鐘

ニーチェ」の警鐘 適菜収。副題は「日本を蝕む「B層」の害毒」

 

このコロナの昨今なので、コンサートはどこも中止。
私は休日にコソコソと出かけては玉石混淆なオケを聞くのが数少ない楽しみであったが、それも当然ダメである。
で、この連休は、家でじっくりとオーディオを鳴らして自宅コンサート(気分だけ)三昧をやった。
その中に「ツァラトウストラはかく語りき」なんていう、やたら仰々しい交響詩もあって、そういえばニーチェだったなあ、と思い出した。
ニーチェも近年では、実は梅毒でおかしくなったタダの危ないおっさんではないか、とか、献身的な妹が兄貴の原稿を編集して、なんとか読める形にしたんではないか、などと言われているようだ。
まるで電化マイルスとマーカス・ミラーみたいである。本人は、延々と思いの丈をセッションしているだけだったりするのだ。まあ、そんなことはあるまいが。
で、そんなわけでニーチェが引っかかっていたところに、タイトルに「ニーチェ」とあるので読んでみた。

 

で、タイトルから分かる通り、B層批判=大衆社会批判の本なのであるが、しかし、大衆自体を批判した本ではない。
大衆が愚かであるのは、誰だって知っている。わざわざ書物で教えてもらうほどの話でもない。
しかし、現代では、その大衆を先導している連中まで、大衆と同レベルになってきた、これは由々しい事態ではないか、というのである。
そのやり玉にあげられているのが小泉であり、大失敗した民主党であり、はたまたその民主党にあっさりと政権を奪われた馬鹿な安倍や麻生である、といううことになる。
著者は、政治だけではなくグルメ批評からJポップまで、B層のおかげで大迷惑であると切りまくる。
そして、実は大衆社会の根源は、実は民主主義にあり、民主主義というものはキリスト教の変質したもの、という指摘をする。
そこでキリスト教批判のニーチェとつながる、というわけである。


評価は☆。
軽快で断言調の筆致は、たぶん意識してのものだと思うが、軽妙さもあって面白い。
民主主義とキリスト教の関連については、新鮮な指摘だったと思う。
ただ、単なるクラシック好きなオヤジとしては、ちょいと違和感を覚えるのも事実。
というのも、クラシック音楽というやつはバッハを持ち出すまでもなく、なんでワーグナーがあんなにイケナイ魅力だといわれているのかも、根本にはキリスト教があるのである。
しかし、このキリスト教が日本人にはわからない(と言われている)
したがって、日本人がいかに激賞しようが、根本のところで、西欧人が感激するのと同じレベルでブルックナーを鑑賞できない、と言われているのである。
同じような話は、ドストエフスキーの小説にも言えるのだが(このあたりは小谷野敦が鋭い指摘をしている)根本的なキリスト教価値観のわからない日本人は、ドストエフスキーの凄さがよくわからないわけだ。
それが、戦後民主主義だけが(大衆に)キリスト教的影響(もちろん悪影響)を与えた、というのはなあ、と思うのである。

個人的にいえば、日本の大衆社会の原点は、むしろ仏教の浄土思想にあるのではないか。
草木国土悉皆成仏、である。
著者は「大衆社会がいくところまでいけば、動物の権利まで主張される」と指摘しているが、それを言うなら、本邦では犬猫のみならず草木まで成仏である。
仏教国といえば、日本以外はほとんど上座部仏教しか残っていないのだが、日本だけが大乗である。
「誰でも仏になれる」
これがえんえんと続いたのが、やっぱり根本なんじゃないかなあ、と思うのだ。
大乗仏教と大衆主義とは、それこそ近縁だろうと思ったりする。
そうすると、ついには浄土真宗の「悪人なおもて」までいってしまい、大衆社会をむやみに否定できなくなるのだ。
だって、私も大衆だもんねえ。

日本人の給料が上がらないわけ

いよいよ菅内閣もスタート。これから、困難な新型コロナとの戦い、落ち込んだ経済の再生に立ち向かわないといけないわけです。

いきなりハードな場面で、野球でいえば先発投手が突然、2点リードしながらノーアウト満塁、一打逆転の場面でアクシデントで降板したようなもんで、大変厳しいわけです。リリーフ菅投手は「江夏の21球」なみの、苦心の投球をしなければならない。大変です。

 

で、良い機会なので、ここらで「どうしてアベノミクスはイマイチだったのか」を考えてみたい、と。

大胆な金融緩和が目立ったアベノミクスでは、たしかに株高を演出することに成功しました。しかし、内需の振興にはつながらず、もっぱらインバウンド消費に内需成長を頼ったのであります。で、コロナで当然ながら壊滅、というのが現在の流れであると。

株式運用する人たち(つまり、お金持ち)は儲かったけれど、一般の人々に恩恵がないというので「トリクルダウンがなかった」と言われました。

トリクルダウン理論云々は神学論争に任せるとして、内需が盛り上がらなかったのは事実で、GDP伸び率をみれば明らかですからね。

一方、企業の内部留保はどんどん積み上がったので、いわゆる労働分配率が低すぎるのではないかというので、左派系論客の標的となりました。

これって、単純にいえば、労働者は「給料が増えてないんだから、消費を増やせるわけないじゃん」というわけですし、経営者は「生産性が上がっていないんだから、給料増やせるわけないじゃん」という。生産性が上がっていれば、GDPがもっと増えるはずですからねえ。

で、どうしてこうなったのか。

 

私は、これは「キャッシュフロー経営」のもたらした帰結ではないか、と思うわけです。

ここで、「データカタログサイト」から

・図表3-1-6-6 労働生産性、労働装備率、労働分配率の推移

を見てみます。

www.data.go.jp

 

       労働生産性    労働装備率   労働分配率

2010年  1495万/人  2123万/人   37.2%   

2017年  1357万/人  1246万/人   41.2%

 

一人あたりの生産性は、2010から2017までの7年間で138万円下がった。一方、労働装備率は、なんと877万円も下がっている。

労働分配率はやや上昇しているので、経営側が言う「生産性が上がっていないのに人件費をあげられない」は、それなりに正しい、ということになります。

結論は一目瞭然で

・労働装備率が激減している

のであります。実は、生産性が伸びていないのは、これが原因じゃあないか。

戦争に例えると、かつては鉄砲もって戦っていたのに、今や弓矢になっている。それで負けている、というわけであります。そらそうだ(笑)

 

いまだにFAXを使っているとか、給付金を配るのにてんやわんやとか、今回のコロナ禍で日本社会のデジタル化の遅れが顕になったのですが、早い話がカネをかけていないのです。

 

で、さらに一歩。なんで、経営側はカネをかけないのでしょう?

かつては、日本企業は銀行と株式を持ち合い、メインバンクがカネの面倒を見るのが当然でした。そのカネを、設備投資に突っ込んだのであります。それで経済成長を実現した。

ところが、バブル崩壊後の処理で、銀行がおかしくなった。大規模な再編が行われ、もちろん株式の持ち合いもコンプラ違反だ、情実融資につながるというので廃止。

そこに「貸し渋り」です。銀行は、雨が降ると傘を貸さなかった。

で、企業は、減価償却を超える投資を控えるようになったのです。そうすれば、手元のキャッシュが増える。融資によらない「キャッシュフロー経営」がもてはやされたのです。

しかし、他人資本を使わず自己資本を厚くする経営は、安全性は増しますが、成長性は落ちます。当然です。

日本全部でこれをやった。

なので、日本企業の自己資本は厚くなり(内部留保の増加)低成長が続いた。

低成長なので、必然的に賃金は伸びず、内需不況に陥ったまま、ということです。

アベノミクスでは、銀行にじゃぶじゃぶ資金を供給したのですが、この流れを変えられなかった。銀行はカネが余っていますが、企業が借りません。だって、調子が悪くなれば、すぐに資金引き上げをしますから。

それじゃあ、怖くて誰も借りられませんよ。

 

かつて、今のケンウッド(当時トリオ)の創業期、東京銀行の担当者が苦境で何度も融資をしました。

担当者は上役に怒られます。「君は情実融資をしている!」

担当者は言い返しました。「ええ、私は情実融資をしてますよ!なんか文句ありますか!」

彼は、のちに乞われてトリオの役員に迎えられるのです。

 

成長をするというのは、資本主義社会では、人よりも抜きん出た製品サービスを作らねばならない。人に抜きん出るためには、人並みではダメで、人を超えた努力を傾けないといけない。その努力を、日本人は「労働」と捉えますが、実は努力は「労働」だけではない。カネも努力なのです。まあ、装備と言ってもよいのですが。

21世紀のこんにちに至っても、なお竹槍で突撃して

「おかしい、勝てない」

と言っている。

指揮と兵站に難点があるに決まっているのですが、誰もいわない。

たぶん、そういうことなんだろうなあ、と思います。