「司政官 全短編」眉村卓。
眉村卓は、私をSFの道に引きずり込んだ作家である。ジュブナイル「謎の転校生(狙われた学園)」なんて、小学校高学年の頃、かなり夢中になった。
司政官シリーズは、大学に入ってから読んだ記憶があるが、まったく印象にない。たぶん、当時の私が若すぎたのだろう。
司政官シリーズは、大学に入ってから読んだ記憶があるが、まったく印象にない。たぶん、当時の私が若すぎたのだろう。
司政官とは何か、というと。
遠い未来に「連邦」という宇宙政府があって、植民地を開拓する。原住民、というか現地生物にとっては侵略である。この開拓活動は、当然ながら軍事力をもってなされるので、開拓惑星の政治は当初、軍政になる。
しかし、軍政を布きっぱなしにすると、いつまでも原住民と開拓者の軋轢がつづく。連邦内部からの批判もある。
そこで、植民者の保護をしつつ、あくまで原住民側に強制しない形での政治的な支援を実施し、自立を促す政治を行う役職が生まれた。それが司政制度であり、その責任者が司政官である。
司政官は、単独で植民惑星に赴任し、配下のロボット官僚を使って統治を行う。
遠い未来に「連邦」という宇宙政府があって、植民地を開拓する。原住民、というか現地生物にとっては侵略である。この開拓活動は、当然ながら軍事力をもってなされるので、開拓惑星の政治は当初、軍政になる。
しかし、軍政を布きっぱなしにすると、いつまでも原住民と開拓者の軋轢がつづく。連邦内部からの批判もある。
そこで、植民者の保護をしつつ、あくまで原住民側に強制しない形での政治的な支援を実施し、自立を促す政治を行う役職が生まれた。それが司政制度であり、その責任者が司政官である。
司政官は、単独で植民惑星に赴任し、配下のロボット官僚を使って統治を行う。
当たり前だが、司政官は矛盾に満ちた存在である。いくら中立の立場で政治を考えようと、彼が侵略側の人間であることにかわりはない。その上、司政制度そのものに対する挑戦は「連邦に対する反乱」として鎮圧しなければならない。
しかし、一方で、強権政治に固執するなら、それは軍政と変わりない。植民惑星の原住民はいつまで経っても自立できず、連邦の発展を阻むことになる。
かといって、植民者による自由な開発を許すと、本来の原住民同士の政治バランスが狂って新たな争乱を引き起こす。司政官はあくまで「支援者」にとどまり、主体は原住民にある政治を行う必要がある。
その狭間で孤独に悩む司政官の姿を描いた短編集であろう。
しかし、一方で、強権政治に固執するなら、それは軍政と変わりない。植民惑星の原住民はいつまで経っても自立できず、連邦の発展を阻むことになる。
かといって、植民者による自由な開発を許すと、本来の原住民同士の政治バランスが狂って新たな争乱を引き起こす。司政官はあくまで「支援者」にとどまり、主体は原住民にある政治を行う必要がある。
その狭間で孤独に悩む司政官の姿を描いた短編集であろう。
評価は☆☆。やっと楽しんで読めた名作に。
この作品が受けたのは、早い話が高度経済成長時代に大量に生まれた「中間管理職の悲哀」に近いからだろう。連邦と原住民の狭間で悩む司政官に、そういう中間管理職が共感したのは充分理解できる。
そういう悲哀が、私も多少わかるようになってきた、というわけか(苦笑)
そういう悲哀が、私も多少わかるようになってきた、というわけか(苦笑)
ただ、このように短編をまとめて読んでみると、司政制度の始まりから矛盾の露呈、制度疲労を経てやがて制度そのものの崩壊へという流れが、今の政治状況をも反映している部分が多いことに驚かされる。
「国家の意思」を体現せねばならない一方、原住民の「支援」に徹しながら理想を追求する司政官は、かつての官僚そのものである。
しかし、長い年月のうちに制度疲労を起こし、やがては彼の存在そのものが含んでいた矛盾があらわになることによって、退場を余儀なくされていくのである。
「国家の意思」を体現せねばならない一方、原住民の「支援」に徹しながら理想を追求する司政官は、かつての官僚そのものである。
しかし、長い年月のうちに制度疲労を起こし、やがては彼の存在そのものが含んでいた矛盾があらわになることによって、退場を余儀なくされていくのである。
司政官シリーズの特徴のひとつは、司政官の配下がロボット官僚であって、彼は単独で赴任することである。単身赴任の宇宙版だが、そこには友人も家族も同僚もいない。
この「ひとりの主人公」は、後年の堀晃の「トリニティシリーズ」などの原型になると思える。あまり諸外国に見られない形のSFじゃないかと思う。
このような勤務形態は、ビジネスマンというよりも「職人」の姿である。かつて「ものづくり世界一」を誇った、日本の職人がモデルだと思えば、諸外国に似た形態の小説が見あたらないのも納得である。そうえいば、司政官も「司政技術」という名の職人として(テクノクラートだけど)描かれている。
この「ひとりの主人公」は、後年の堀晃の「トリニティシリーズ」などの原型になると思える。あまり諸外国に見られない形のSFじゃないかと思う。
このような勤務形態は、ビジネスマンというよりも「職人」の姿である。かつて「ものづくり世界一」を誇った、日本の職人がモデルだと思えば、諸外国に似た形態の小説が見あたらないのも納得である。そうえいば、司政官も「司政技術」という名の職人として(テクノクラートだけど)描かれている。
そういう職人も、日本から静かに消えようとしている。このようなSFが再び書かれることは、日本では眉村卓亡き後は、もうないのかもしれないな。