黄氏は台湾人であり、日本擁護論で有名。呉氏は「スカートの風」で鮮烈なデビューを飾った。石氏は、四川省出身で、天安門事件の前年に出国、日本で暮らす民主化活動家。
このうち、呉氏と石氏は日本に帰化している。三氏とも、いわゆる「親日派」である。
このうち、呉氏と石氏は日本に帰化している。三氏とも、いわゆる「親日派」である。
本書のタイトルは強烈だが、その意味するところは「日本の売国奴を罵倒しましょう」というようなことではない。
呉氏、石氏とも、その親日的発言ゆえに、母国で「売国奴」と指弾されているということである。つまり、この本は、「売国外国人による鼎談」ということだ。
ただ、黄氏に関しては、台湾政府の「反日」色が強くないので、他の二氏に比べればマシな状況であるようだ。黄氏が三人の中でも最年長であるので、この鼎談の司会進行役となっている。
呉氏、石氏とも、その親日的発言ゆえに、母国で「売国奴」と指弾されているということである。つまり、この本は、「売国外国人による鼎談」ということだ。
ただ、黄氏に関しては、台湾政府の「反日」色が強くないので、他の二氏に比べればマシな状況であるようだ。黄氏が三人の中でも最年長であるので、この鼎談の司会進行役となっている。
彼らは、自分たちが「売国奴」と呼ばれることに関して、それぞれ異なる感慨をもっているようだ。
呉氏は、やはり自分にとって「韓国」という民族の重みは消えない、だから売国奴と指弾されることに深い悲しみを覚えると言う。
石氏は、そのような批判を「まったくなんとも思わない」と断じる。そんな批判は、しょせん中共の言い分であり、批判を受けることがむしろ正しいと信念さえもっているようである。
民族、ということに関しては、呉氏も石氏も否定しないので、むしろ「世界市民なんてあり得ない」というスタンスである。そうでなくて、民族がそれぞれ、それなりの政治をすればいいだろう、ということのようだ。
呉氏は、やはり自分にとって「韓国」という民族の重みは消えない、だから売国奴と指弾されることに深い悲しみを覚えると言う。
石氏は、そのような批判を「まったくなんとも思わない」と断じる。そんな批判は、しょせん中共の言い分であり、批判を受けることがむしろ正しいと信念さえもっているようである。
民族、ということに関しては、呉氏も石氏も否定しないので、むしろ「世界市民なんてあり得ない」というスタンスである。そうでなくて、民族がそれぞれ、それなりの政治をすればいいだろう、ということのようだ。
彼らは言う。「日本人は、外国人から批判されるのが好きな民族」である。なるほど。
しかし、「私たちの言うことは聞いてくれない」と(笑)。
日本人が「外人に弱い」のは事実だが、それはなぜか「親日アジア人」は除く、その奇妙な姿勢を冒頭に指摘。たしかに、そうである。。。
しかし、「私たちの言うことは聞いてくれない」と(笑)。
日本人が「外人に弱い」のは事実だが、それはなぜか「親日アジア人」は除く、その奇妙な姿勢を冒頭に指摘。たしかに、そうである。。。
続いて、「反日」議論に入るのだが。
黄氏は、台湾出身で、たしかに台湾でも「反日教育」はあるそうである。しかし、それは、さほど深刻に受け止められていない。どうも、なんとなく日本的「本音と建て前
」の文化があって、あくまで「反日」というのは「建前」にすぎないらしい。
一方、韓国では様子が異なる。何しろ、民族の独立、という政治的な動機が全て「反日」にかかっている。韓国人の自立と反日は、深く結びついているので、これに反することはなかなかできない、という事情があるようだ。個々の韓国人が、本当に日本人嫌いかといえば、そうでもない面も多いらしい。このあたりの矛盾は、私も韓国のことわざ「昼の反日、、夜の親日」ということで教わった部分である。
中国はどうか。石氏によると、そもそも文化大革命当時だろうと、その後だろうと「反日教育」なんてなかったそうである。むしろ、毛沢東や周恩来、小平といった第一世代は、実際に日本軍と戦ったことがあり、日本のすごさもよく認識していて、尊敬している面もあったらしい。
話が変わったのは天安門事件である。江沢民は、毛沢東と違って、政府の正当性の担保(血で勝ち取った革命)を持たなかった。民主化要求は、つまり「権力を民衆に返せ」ということである。
江沢民は、中国共産党の権力保持のために、反日を利用することにした。だから、中国の反日は「歴史問題」ではなく、「現在の政治の問題」なのだ、という。なのに、「歴史問題」と言われてホントに「歴史が問題なんだ」と思ってしまう日本人の「おひとよし」はちょっと、、、と苦言を呈している。
まあ、このあたりは「それが日本の文化なので、、、」といった調子である。
日本人の一人として、一言の反論もできませんなあ。
黄氏は、台湾出身で、たしかに台湾でも「反日教育」はあるそうである。しかし、それは、さほど深刻に受け止められていない。どうも、なんとなく日本的「本音と建て前
」の文化があって、あくまで「反日」というのは「建前」にすぎないらしい。
一方、韓国では様子が異なる。何しろ、民族の独立、という政治的な動機が全て「反日」にかかっている。韓国人の自立と反日は、深く結びついているので、これに反することはなかなかできない、という事情があるようだ。個々の韓国人が、本当に日本人嫌いかといえば、そうでもない面も多いらしい。このあたりの矛盾は、私も韓国のことわざ「昼の反日、、夜の親日」ということで教わった部分である。
中国はどうか。石氏によると、そもそも文化大革命当時だろうと、その後だろうと「反日教育」なんてなかったそうである。むしろ、毛沢東や周恩来、小平といった第一世代は、実際に日本軍と戦ったことがあり、日本のすごさもよく認識していて、尊敬している面もあったらしい。
話が変わったのは天安門事件である。江沢民は、毛沢東と違って、政府の正当性の担保(血で勝ち取った革命)を持たなかった。民主化要求は、つまり「権力を民衆に返せ」ということである。
江沢民は、中国共産党の権力保持のために、反日を利用することにした。だから、中国の反日は「歴史問題」ではなく、「現在の政治の問題」なのだ、という。なのに、「歴史問題」と言われてホントに「歴史が問題なんだ」と思ってしまう日本人の「おひとよし」はちょっと、、、と苦言を呈している。
まあ、このあたりは「それが日本の文化なので、、、」といった調子である。
日本人の一人として、一言の反論もできませんなあ。
三人とも、「嫌いな日本人」は「反日日本人」だそうである。「日本人のくせに、日本は悪いとばかり言い続ける人々は偽善者」だというのが、三氏の共通理解である。
この構図は面白い。つまり、彼らは母国では「売国奴」だったのである。その「売国奴」が、いわば一部の日本人に「売国奴じゃないか」と切り込んだわけだ。
売国奴に売国奴とののしられる人間って、どうよ?(苦笑)その代表は「大江健三郎」だそうだ(爆)。
この構図は面白い。つまり、彼らは母国では「売国奴」だったのである。その「売国奴」が、いわば一部の日本人に「売国奴じゃないか」と切り込んだわけだ。
売国奴に売国奴とののしられる人間って、どうよ?(苦笑)その代表は「大江健三郎」だそうだ(爆)。
評価は☆。三氏の主張をかねてから知っているので、驚きはない。けれども、「やっぱりなあ」と感じるところは多い。
蛇足だが。
たしか、昨年のことだったと思う。呉氏の母親が亡くなって、氏の生まれ故郷である済州島に弔いのために帰郷されたところ、韓国の入管が、その入国を拒否した。
その理由は「国にとって、不利な言説を行っているから」だった。呉氏は、親の葬儀に立ち会えないことを深く悲しみ、日本政府に緊急支援を求めた。
呉氏は、すでに帰化していたので、日本人である。日本政府は、ただちに韓国政府に入国を要請。韓国政府は「人道的配慮」によって、呉氏の入国を許可したことがあった。
当時の韓国盧武鉉政権と、日本の安倍政権の間の出来事である。両政権とも、すでにない。
たしか、昨年のことだったと思う。呉氏の母親が亡くなって、氏の生まれ故郷である済州島に弔いのために帰郷されたところ、韓国の入管が、その入国を拒否した。
その理由は「国にとって、不利な言説を行っているから」だった。呉氏は、親の葬儀に立ち会えないことを深く悲しみ、日本政府に緊急支援を求めた。
呉氏は、すでに帰化していたので、日本人である。日本政府は、ただちに韓国政府に入国を要請。韓国政府は「人道的配慮」によって、呉氏の入国を許可したことがあった。
当時の韓国盧武鉉政権と、日本の安倍政権の間の出来事である。両政権とも、すでにない。