Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

推定無罪


先に「陪審員」を読み、アメリカの裁判に興味が沸いて、この本を読む。
アメリカではベストセラー、映画化もされ、日本でも「このミス2位」という快挙を誇る名作で、あの福田和也氏も「悪の読書術」の中で「ジョン・グリシャムより遙かに上」であるとした名作。
古本屋で入手した。初読である。

主人公のラスティ検事補は、地元の地検でもエースと呼ばれる人材である。
ある日、彼の部下の美人検事補が殺害されているのが見つかった。殴打されて死亡しており、情交のあとがあった。
ラスティは、この事件に関する捜査指示を出すが、その指示の中には自分と彼女との通話記録を出さないように、という指示があった。そして、それが状況証拠となって、自分自身が被疑者となっているのを知る。
アメリカの検事長は、検事の中から選挙で選ばれるらしいのだが、その選挙戦で、長年ラスティが仕えたレイモンドが敗北してしまうのだ。
レイモンドに勝ったディレーの一の子分がモルト検事補で、ラスティのライバルにあたる。そのモルトが、ラスティを秘密捜査し、物的証拠は乏しいのだが、グラスにラスティの指紋があった点をついてラスティを被疑者として訴追したのである。
検事自身が殺人事件の容疑者になること自体、検事としての職業生命の終わりだから、この裁判には政治的な意図があるとみえなくない。
そして、かつて法廷で何度もラスティと戦った腕利き弁護士のスターンは、この点をついてラスティの弁護を行う。
法廷では、検察と弁護側の行き詰まる論戦が繰り広げられる。どちらが陪審員の支持を得るのか?
そして、ついに判決はおりる。
いったん集結したかに見えた裁判だが、最後に意外な事件の真相が明かされる。。。

なるほど、こりゃ名作である。最後までうなりまくり。上下巻、かなりの分量があるのだが、まったく飽きさせない。
さらに翻訳がすごい。海外ミステリものにありがちな生硬な文章がまったくない。だから、すらすらとストーリーが頭に入るのだ。驚いた。良い仕事の見本である。

評価は☆☆。読んで損のない名作。すべてが納得。

この物語の中では、判事のラレンが重要な役割を演じる。黒人判事であるラレンは、いわゆるリベラル派として知られる。つまり、検察側に有利な訴訟指揮を行わないのである。
もちろん裁判は公正でなければならない。そして、現実には、公正の基準は判事によって異なるということである。
ラレンは、繰り返し言う。「あそこに座っている被告人、彼を無罪としてみなければならない」いわゆる「合理的で疑いなく有罪」の評決を受けるまで、人は無罪の推定を受けなければならないのだ。
この「推定無罪」の原則を、ラレン判事は何度も強調する。訴追されたから有罪ではないのだ。

ところで、日本の裁判では、実際には刑事事件で訴追された人の有罪率は90%以上である。つまり、訴えられたら、まず有罪ということになる。
よって、新聞でもテレビでも、誰かが逮捕されたら「犯罪者」扱いである。
昔は、容疑者指名を「呼び捨て」で報道したものだが、さすがに推定無罪の原則に反するというので「容疑者」なる珍妙な敬称が生み出された。
佐藤氏であれば、逮捕されたとたんに佐藤容疑者になるわけだ。こんな人を馬鹿にした敬称があるものだろうか?これは、そもそも敬称ではない。
推定無罪の原則について言えば、明らかに未決囚であろうとも「佐藤氏」でなきゃいけないはず、であろう。
私は、裁判員制度に賛成とか反対とか、そういう大上段に振りかぶった議論をする気はない。正直にいえば、それぞれにもっともな部分があると思うからだ。
ただ、事件報道に対するマスコミのあり方については、やっぱり考え直したほうがいいと思う。
あるいは、自分がもしも裁判員を経験したら、「容疑者」という報道に違和感を感じるようになるかもしれない。彼が無罪であったときに、「容疑者」と呼ばれ続けたダメージを、いったい誰が回復できるのだろうかという疑問は当然だろうと思うからである。
本当の「人権」って、たぶんそういうつまらないところから、はじまるもののような気がするんだけどね。