Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

入学拒否に思う

オウム真理教松本被告の子供が、中学校に「入学拒否」されたそうである。学校側は「他の生徒の勉学の妨げになる」と判断したそうである。入学試験には合格したそうだから、学力には問題ない。
松本被告の弁護士は、「差別である」とコメントしている。

単純に、3つの問題がある。
1)本人には問題ないのに、親が犯罪者であることによって、他人と違う扱いを受けたこと
2)親の犯罪は確定していないこと
3)他の生徒の勉学の妨げになるか否かは、まだ分からないこと
である。

まず、親の犯罪、というものを考えてみる。
罪は、なぜ罪かというと「犯罪行為をする能力」があり「犯罪をする自由意志」があって「犯罪行為をした」ことが法に反するのである。いずれかの一つでも要件を満たさない場合は、罪とは言わない。(構成要件、、、懐かしい。そういえば、「不能犯」とか習いました)
で。
犯罪者の子供についていえば、これは本人には全然当てはまらないので、本人は無罪である。極論を言えば、「生まれてみたら父親が犯罪者だった」ということもあり得る。生まれる前のことを、本人にはどうとも致しかねる。それを「お前も悪党の一員だから反省しろ」と言われても、いったい何を反省したらいいんだろう?
憲法で「出身、門地による差別」を禁じているのは、少なくとも近代法の原理において「本人には反省のしようがない」からだ。当然である。
なお、この論理であれば「戦後生まれの日本人」に「反省しろ」と言われても、生まれる前の出来事を反省するすべはないのが当然なのだが、なぜ護憲派特定アジアの批判に対して「それは出身による差別だ」と言わないのか、論理的には不思議で仕方がない---余談であるが。

次に、少なくとも、今はまだ「松本容疑者」である、ということがある。「容疑者」というのは、裁判で刑が確定していない人のことで、だから「容疑者」という。
もしも、松本容疑者が、これから「逆転無罪」にでもなったらどうするんだろう?
あり得ない?まあ、そうであろうけど。

で、たぶん中学校もそこまで考えたと見えて「他の生徒の勉学の妨げ」という論理を採用したものと思う。本人の権利は尊重しなければならんが、他の生徒の権利も尊重しなくてはならん、その利益考量の結果だということであろう。
しかし。
冷静に考えてみると、この松本被告の子供が実際に「他の子供の勉学を妨げた」ので処分するなら話は簡単だと思う。しかし「妨げるかもしれないから」である。
その予想が正しいという確証はない。

ただし。もしも、実際にそのような「他の子供の勉学を妨げる」事態が起きたら、学校は「なんでそんなことが予測できなかったのか。怠慢だ」という厳しい批判にさらされるだろうな。
そう、「結果」がでてしまうと、人間は「それは原因があるはずだ→それは入学を許した学校がイケナイのだ」となるのだ。そして「結果」が伴ったこれらの批判に対して、反論することは容易でない。
「何を言ってもいいわけ」だとなるのだ。

「思想」は、これは差別だとする。人間が「思想」に基づいて行動を判断するのなら、やはり松本被告の子供は入学を許されねばならないはずだと思う。
しかし、それで「事故」がおきたら、「世間」はそれを許すまい。そのとき「思想に基づいて、入学を許可しました」と言ったら「いいわけだ。現実をみろ、このばかたれ」と言われるに決まっている。

私の生活でも、このようなことは沢山ある。仕事は、正直いって、その連続だ。
自分の判断では「このようにすべき」とは思っても、それが正しいかどうかは分からない。なぜなら、少なくとも「正しいかどうか」を判断する基準が「結果」であるという主張に対しては、有効な反論がないからだ。「思想で思想を判断する」のは、たしかに単なるドグマの誹りを免れない。

人は、神ならぬ身で、なかなか未来のことはわからない。わからないから、そのとき、なにやらとにかく、それぞれの基準に基づいて「判断」する。判断した結果、行動する。結果が悪ければ、そりゃ判断の基準が間違っていたからだ、となって厳しく弾劾される。
(「結果主義」とか「信賞必罰」とか「勝てば官軍」とか)
どうやら、それが世間であるようで、しょせん法も「世間」のルール以上の存在ではないという考え方も成り立つ。(実定法思想)

なかなか夢も希望もない、つまらない話だが、しょせん「つまらない」のがこの世の実相なのかもしれないなぁ、と思う。
こんな厭世思想が高じると、死が恐怖ではなく甘美な休息に見えてくるのだろう。

申し訳ないが、私は、鬱になってきているようだ。
病院に行って、自分の脳みそのチューニングを変えてもらったほうがいいな。