Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

無宗教形式の慰霊について

靖国に関連し「無宗教形式の慰霊施設を」という論がある。
しかし、私は、そもそも「無宗教形式の慰霊」などあり得ないし、無宗教形式の慰霊施設もあり得ないと主張する。

まず「慰霊」とは「宗教的行為」である。
もともと宗教では、死後の世界を想定する。宗教自体が、死の恐怖に対する緩衝装置として考えだされたので、これは当然である。すなわち「霊魂」も、死後の存在であるから、そもそも「宗教的概念」である。簡単にいって、非科学的で非合理的概念である。

この「宗教的行為」である「慰霊」を、どのようにするかが、宗教によって異なるだけである。
日本の仏教では「遺骨」を重視する。別に、釈尊が「遺骨を大事にせよ」を命じられたわけではない。
仏教において遺骨は物であるが、遺骨(よすが)があることで寄せられる心を重んじているのである。
神道では、御神体として骨を必要としない。
御神体がなく、御神域だけの場合もある。(この場合、鳥居がシンボルである)自然神(山神様など)は、そのような例である。
遺骨がかえってこない戦没者などの場合であれば、その方の菩提寺は遺骨無しで墓だけを建立する。遺族は心の「よすが」がない。さぞ御無念であろうと思う。(ゆえに、国は遺骨収集事業を継続しなければならないのである)
しかし、靖国神道で遺骨は関係ない。ただお祀りするだけである。
平日でも、地方から多くのご遺族の方々が参拝に訪れている。そこには、戦死したおじいちゃんがいるからだ。神道であれ仏教であれ、そこにお祀りされている霊に「お参り(参拝)」するのである。

翻って、広島長崎の平和記念公園に行くのを「参拝」とは申さない。
年に一度、原爆記念日に平和祈念式典が行われている。そのとき、確かにご冥福のために黙祷される。
しかし、そこは公園である。平素の供養もお祀りもない。お名前を刻んだ碑があるばかりだ。
ゆえに、その場所で平和を祈念することはできるが、そこにおわさぬ霊をお慰めすることはできないのが道理だろう。
公園は、宗教的施設ではないので、当たり前のことだ。
年に一度だけ行われ、お祀りもなく、霊もいらっしゃらないならば、その行事は慰霊祭ではなく、単に式典(儀式、セレモニー)と言えばよかろう。式典ならば、公園で行われて支障はない。
故に、平和祈念「式典」に「参加」してきた、とは言うが、参拝してきたとは言わない。

原爆の被害者の慰霊は、それぞれのご遺族によってなされている。国は、原爆被害者の慰霊を行っていない、と私は見る。

さて、慰霊は「現世の者のための行為」ではない。
平和に思いをいたすべきは、現世の者であるから、そのための行為ならば、それは式典であって、宗教的行為ではないし、慰霊でもない。慰霊を「儀式」としてみる立場は、主人公を死者において考えていない点で、すでに慰霊とは言わぬ。
死者を慰めるやり方は、様々あるが、そのために宗教が存在している。
本来「宗教的行為」である慰霊を「無宗教」で行うならば、それは似非宗教のそしりを免れぬ。
長い伝統に立脚した宗教があるのに、どうして「宗教がかった」「しかし宗教でない」式典によらなければいけないのだろうか?私は問うが、このような式典を、誰のために行っているのか?

死者のために、慰霊をすべきだと私は主張する。ただそれだけである。