Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

戦犯問題にみるレトリックについて

レトリックとは、しばしば真実を隠蔽するために用いられる。

靖国問題について書いたとき、A級戦犯について「多くの兵を殺した、死ねと命令した側だから」とか「終戦のタイミングを誤った責任」論を多く見た。いずれもレトリックであり、事実を枉げている。レトリックを使わねばならない理由、レトリックによって得をする者に思い致すべきであると考える。

私の祖父は、ビルマ戦線で負傷し、内地に後送され九死に一生を得た。
もし、祖父が戦死していたらどうであるか?私は答えるが、その場合、祖父を殺したのは英軍であって、東条英機ではない。これは、単なる事実である。実際に、祖父の戦友は多く靖国にお祀りされておられるが、東条英機に殺されてはいないし、祖父もそう言ってはいなかった。仮に祖父が戦死して、もしも私の目の前に英軍が現れて、おまえの祖父を殺したのは我々ではない、ミスタートージョーであると言ったら、私はユー・アー・ライアーと叫ぶであろう。それが戦争である、やむを得なかったと言われたら納得できるが。

日本は米内光政内閣になってから、終戦の方策を探り、中立国であるスイス、スウェーデンソビエト!(当時は日ソ中立条約があるから仕方ない)に終戦工作の依頼を行った。連合国の反応ははかばかしくなかった。そこで、日本は玉砕覚悟の徹底抗戦を行うのである。事実、米軍の死傷者は膨大であった。このまま本土侵攻を行えば、驚くべき被害を覚悟しなくてはならない米軍は、東京大空襲についで原爆投下を決断する。米軍は既に大勢において勝利しており、自国民の被害を少なくするための爆撃であった。簡単に言えば、トルーマンの次期選挙のためであった。
戦局不利な時点で頑強に抵抗し、敵に出血を強いることで講和条件を良くするのは、戦争の常道なので、それ自体は別に責められるべき行為でも何でもない。むしろ、当然である。その出血を嫌って講和するイニシアティブは、連合国にあったので、A級戦犯にはないというべきである。原子爆弾の被害を予想できなかったのは、史上初の最終兵器の使用だったのだから仕方がないのではないか?
広島、長崎の無辜の市民を殺したのは米軍であって、A級戦犯ではない。A級戦犯が原爆を投下してもいないし、投下命令を下してもいない。なんで彼らの責任であるのか?こういうのを「ためにする」といわないか?

科学的とは、事実に基づいてものを考えることを言うのであり、特定のイデオロギーなどのドグマに基づくことではない。

されば、何故、かかる問題の原因をA級戦犯の責任だと言わねばならないのか?
A級戦犯の責任だといえば、得をする者達がいるからであろう。
広島で被爆した韓国人が、日本政府に補償を求めて問題になったが(しかも、その訴えを認めているが)なぜ、原爆投下した当の米軍に補償を要求しないのであろうか?
少なくとも、まず米軍に要求し、そののち、日本国に要求するのが筋というものだろう。

事実を隠すために使われる便法をレトリックという。

何を隠すためにレトリックは使われたのか?
それで、一体、誰が得をしたのか?よく考えてみればいいだろう。

私は、レトリックを用いる者を信じない。