Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

忘れられた日本人

「忘れられた日本人」宮本常一著。岩波文庫

この本は、私が敬愛するtessai様のお薦めに従って読んでみたものである。

tessai様は、ご自分のブログを「キチガイ博士の極論・暴言・妄語」とおっしゃっている。
http://blogs.yahoo.co.jp/tessai2005
おもしろ半分で拝見してみたら。
この論理の一貫性はどうだろう、と思ったのだ。もしもtessai様が吉外だとすると、たいへん論理的な吉外であるとするより他にないではないか。
私は、なによりもその人のロゴスの一貫性を重んじる。この方のロゴスのなんともいえぬ透明感が、私は大好きで、よくおじゃまさせていただくようになった。

ところで。
我々が「保守」という場合、普通は明治以来の「近代化」路線を支えた思想への回帰を意味する場合が多い。それは、不平等条約の改正に対する努力から始まった富国強兵の必要性の理解であり、世界の現実を認めた上で互角にモノを言える国にしようという熱意であり、そのために国民が傾けた情熱であり、自国の文化に対するプライドであった、と思うのだ。

しかし。ならば、そもそも「明治以前」の日本人はどうであったか?
その部分に光を当てたのが、この宮本常一の「忘れられた日本人」である。

いろいろ驚くことが多いのだが、簡単に私が感じたままを記すと
・人間と自然との調和。エコ。
・村人同士の平等な社会。総意にもとづくまぁるい社会。競争より共生。
・貧しくても、貧しいことを悪とはしないし、貧富が人間を測るモノサシではない
・オープンな男女関係
・勤労を貴ぶ気風
・実生活に密着した知識と知恵
といったことが上げられるだろうか。

いってみれば、明治以来の日本が「物質的上昇志向」であったとするなら、それ以前の日本は「物質より精神、知足」の社会を、かなりうまく実現していたようなのである。

私たちは、年々便利な発明品に支えられ、大量のエネルギーを消費し、モノやサービスを生産し、あるいは消費して生きる。
そして、より便利に、暑くも寒くもなく、たくさんのモノに囲まれて生きていくことが幸せだと教えられる。
しかし、それは本当なのだろうか?
自給自足で生活していた人が貧しくなるのは、貨幣ですべてが調達されるようになるからであるのだ。便利なモノが出来ることで、それを持たぬ人ははじめて不便になる。それ以前は、不便ではなく、当たり前であったのだから。

このような思想を、かつての原始共産制への復帰思想だというのはたやすいだろう。
しかし、現実に、我々は、今や「モノから心へ」再び価値を転換させるべきタイミングにきているように思われる。手に入れた文明を放逐することはできそうもないが、かつては重要だった心の価値を、もう一度取り戻さなければ、私たちの人生はモノを追いかけるだけで終わってしまうだろう。

心の幸せということは、日々の生活の中で実感されなければ意味がない。なぜなら、そのような日々の生活こそが、我々の人生そのものであるからだ。
哲学も宗教も、畢竟、それが我々の生活の中に息づいて、はじめて意味を持つ。

民俗学の本では柳田国男の「遠野物語」くらいしか読んだことがなかった私であるが、この本は、はるかに面白かった。聞き書きの連続が名文というほかなく、ただ読むだけでしみじみと、昔の日本の情景が浮かび上がってくるのは見事だ。

評価は☆☆☆。斯界の方には有名な名著らしいが、別に民俗学の知識もいらない。ただ、素直に読み進めばそれでよい。
手元において、なんども読み返したくなる。奇跡のような書物である。