Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

レオナルドのユダ

「レオナルドのユダ」服部まゆみ

ダ・ビンチ・コード」を読んだついでにレオナルド物を。
この本は、ミステリと思って読まないほうが良い。レオナルド・ダ・ビンチという天才を「狂言まわし」に使った歴史小説(フィクション)である。もちろん、歴史小説であるから、史実に取材していることは当然なのだけど。

レオナルドの弟子2人。一人は地方領主(貴族)の息子、フランチェスコ。彼は歴史上でもレオナルドの弟子として、師の手稿や作品を大量に持っていたが、彼の子息は出来がわるかったようで、すべてバラバラに売り払ってしまった。だから、レオナルドの未完作品はスケッチも含めて大量にあるものの、その行方は不明というものが多い。
もう一人の弟子はジャン。フランチェスコの使用人であり、身分の差に悩む。
さらに貴族がもう一人パーオロ。これは人相家でありレオナルド伝を書く役割。

この本のテーマは、映画の「アマデウス」とあまりにも似ている。
ある天才がいるとしよう。彼を皆が褒めそやす。しかし、実は「彼が天才である」ということを知るのには、その本人にも才能がなければどうにもならない。まったく絵心がなければレオナルドの天才は理解できぬし、音感がゼロならモーツァルトも牛の鳴き声と変わらぬ理屈である。

これは何を示すかというと。
つまり、在る人物が「天才だ」と看破する能力を持つ人物は、なまじ中途半端な才能がある故に、天才と自分の差を正確に把握し得る。どうにもならない差、決して埋められぬ差である。その天才が師であれば、弟子は師が天才であるが故に、いつまで経っても師の足下にも及ばぬ不肖の弟子であるということを痛感せずにはおられまい。
アマデウスにおけるサリエリの役割も、なまじ才能がある故に劣等感と憧憬に苦しむことであった。ついに精神を病んで痴呆になったサリエリの幸福な顔のラストシーン。「才能がなければ」人は苦しまずに済むのだ、というメッセージだ。

事件は、つまり師の偉大さと自身の卑小さを知るからこそ、そこに起きる。そういう話だ。

若い頃は、こういう話にひかれた。
今は、あまり心に響かない。早い話が、自分が大した能力もないことを、だんだんに思い知ってしまったからである。凡庸な才能であれば、天才に対して嫉妬もしないし目標にすらならない。

この小説を面白く読めたら、その人はまだまだ若いのである。無限の才能があるのである。それで良いのではないか?実力は、中年以後にだんだんわかってくる。先をむやみと急ぐものではない。結論だけ、ラストシーンだけ見て映画を見たとは言わない。

評価は無星。
もちろん、それは今の私だから。そう、あと15年若ければ、☆は間違いないところ。だから、この作品が面白くないということじゃないのですよ。お間違いなく。