Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

制裁

「制裁」ルースルンド&ヘルストレム。

本書は、スウェーデンの作品だということを最初に頭にいれておく必要がある。つまり、死刑制度がない国なのである。無期懲役はあるが、20年以上になると自ら刑期変更を願い出ることができるという制度のおかげで、最長20年だと思えばよいそうである。

ルンドという男が、変態性欲者であって、二人の幼女を誘拐して強姦致死に至らしめる。実は、彼は初犯ではなく、何度か同種の犯罪を犯したあげく、ついに逮捕された。以前は精神病ということで、病院に送られた後に退院している。
ルンドは、刑務所に送致中に、看守を殴り倒して逃亡する。逃亡したルンドは、再び幼稚園を遅い、マリーという一人の少女を再び強姦致死に至らしめる。

マリーの父親がフレデリックである。離婚しており、一人娘のマリーはかけがえのない存在であった。フレデリックは、義理の父親の遺品であるライフルを持ち出し、新たな犠牲者を狙って幼稚園の近くに潜伏中のルンドを、警察より先に発見。近所にいた警官に通報することなく、ルンドを射殺する。

検事は、フレデリックの殺人は「計画殺人」であるので、法律に従って無期懲役の求刑を行い、世論の指弾を浴びることになる。彼は「仮にルンドがいかに卑劣な人間であろうと、フレデリックに彼の生死を決める資格は無いのであり、彼が判事と死刑執行人の代わりを一人で勤めたのは犯罪にほかならない」と主張する。
弁護士は、射殺されたルンドのポケットから「ピストル」「大型ナイフ」「彼が狙っていた幼稚園に通園する少女2名の写真」が発見されたことから、彼の行為は少女2名の命を救った正当防衛だと主張する。
事実、ルンドは新たな2名の少女を狙っていたのである。
フレデリック自身は、「復讐ではなく、自分のような父親を再びつくらないための行為だった」と言う。しかし、彼は「娘が死んだときに自分は死んだ」と感じている。

フレデリックは一審で無罪となる。正当防衛が認められるのである。しかし、その結果、各地で性犯罪の前科を持つ人間に対するリンチ事件が起こる。「正当防衛だ」というわけである。

その中、フレデリック上級審のため、ふたたび収監される。さて。。。

評価は☆☆。
死刑制度には賛否両論あるであろう。どちらの考えの方も一読して損は無いと思うのである。

ちょっと一言、フレデリックと判事のやり取りを紹介しておこう。
「国家が市民を守ってくれないなら、市民がみずからの力で守るほかはありません」
「わが政府は死刑制度を認めていないのですよ。ルンドが卑劣で最低の人間だとしても、彼の生死をあなたに決める権利はないんです」
このやり取りは、実は大変興味深い視点を提供してくれる。
つまり、フレデリックが行った行為は、仮に「報復」でなかったとしても、彼にその行為を行う権限がなかったという点で犯罪なのである。仮に、フレデリックが「警官」で、ルンドが今にも幼女に襲い掛かろうとしている状態であったら、彼は罪に問われることはないであろう。
フレデリックの主張は、「市民」が「市民」を裁くことを肯定していることになる。これは「反国家的」な思考だということになる。
一方、検事の主張は「誰にも他人の生死を決める権利はない」という論理であるが、これが否定されると困るのは「国家」である。治安維持できない結果となるからだ。

つまり「死刑肯定論」側が「反国家」であり、「死刑反対」側の立論は「国家主義」なのである。

死刑問題の本質は、「国家」が「市民」の生死を決めることができるか否か?という視点で語られることが多い。しかし、死刑を廃止したスウェーデンでは「市民」が「市民」の生死を決めることができるか?という逆の立論が出てくるわけである。
もちろん、これも否定する(その場合は、国家の論理にならざるを得ない)ことはできる。しかし、この論理を突き詰めると「国家による正当防衛の禁止」まで、論理的には成立し得ることになってしまうのである。
そうなれば、別の意味で地獄が出現してしまうのだ。救いの無い本書のラストはそれを暗示する。

ところで、「衝動殺人」と「計画殺人」では、なぜ計画殺人のほうが罪が重いのか?それは、計画殺人のほうが「社会に対する挑戦」としては重いからである。しかし、現実には、理由無き衝動殺人のほうが、はるかに社会不安をもたらしていることにも、留意する必要があるのではないだろうか。
「刑罰の論理」は法哲学においても意見の分かれるところであるが、そろそろ、何か違う論理が必要とされているようにも思うのである。