「日曜日に読む荘子」山田史生。
簡単な例で説明すると「私は嘘つきだ」という文章である。もしもこの文章が真であるとすれば、「私」は嘘つきなので、これは矛盾である。もしもこの文章が偽であるとすれば、「私」は真実を言っていることになり、やはり矛盾する。
この矛盾は、実は対象としているもののレベルが違うことに原因がある。このような場合に、実は「真」か「偽」か、という選択ではなくて「わからない」というのもある。それを、数学では「証明不能」という。証明不能というのは、真か偽かがわからない、ということではあるけど、真でも偽でもない、ということではない。真実はどちらかにあるのだけど、ただ我々の論理では知ることができない、ということなのである。
この矛盾は、実は対象としているもののレベルが違うことに原因がある。このような場合に、実は「真」か「偽」か、という選択ではなくて「わからない」というのもある。それを、数学では「証明不能」という。証明不能というのは、真か偽かがわからない、ということではあるけど、真でも偽でもない、ということではない。真実はどちらかにあるのだけど、ただ我々の論理では知ることができない、ということなのである。
評価はなし。
理由は「とてもじゃないが、日曜日に読める程度のシロモノじゃない」からだ。
荘子は、東洋哲学の中でも難解というか、わざわざワケのわからん議論をふっかけることで高名だからなぁ。説明しようとすればするほど、泥沼にはまる。それが、荘子の面白さ、ということなんのだけど。
理由は「とてもじゃないが、日曜日に読める程度のシロモノじゃない」からだ。
荘子は、東洋哲学の中でも難解というか、わざわざワケのわからん議論をふっかけることで高名だからなぁ。説明しようとすればするほど、泥沼にはまる。それが、荘子の面白さ、ということなんのだけど。
もちろん、言うまでもないが、こんな本を読んでいるのは「世捨て人」モードに入っているからだ。勝負の決まった選挙を無理やり「天下分け目」と放送するのを見ていると、たいへん不快である。もう知らん。私も早いところ隠棲したいよ(笑)。