Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

関ヶ原 誰が大合戦を仕掛けたか

関ヶ原 誰が大合戦を仕掛けたか」武光誠

世間は一応「天下分け目」ということになっているので(苦笑)触発されたのかどうか。知らぬ間に買っていたんで、読んでしまった。

私は、関ヶ原に関しては非常に興味があり、いろいろと資料は読みあさったほうである。その後の日本の方向を決めた大合戦、というわけだ。

本書なのだけど、まず豊臣時代の経済的な背景から説き起こし、それぞれの大名の事情と合戦のなりゆきについて説明している。

評価はナシ。大仰なタイトルの結論が「関ヶ原を起こしたのは上杉と毛利」が結論だというんじゃ、何のひねりもあらしまへんがな(笑)。
まあ、つまりは西軍首脳の石田三成は、そんなに大した人間ではなく、ただの吏僚であるという根本的な見解があるわけで、そうすると三成に大合戦を演出できたわけはないということになる。すると、欲得ずくで動いた西軍の大名、特に上杉と毛利が犯人だ、という理屈である。
たったそれだけ。これほど力の抜ける話もないのである。

まあ、昔から勝てば官軍という。人がいかに勝った方を正当化するものか、ひしひしと感じられるという意味ではそれなりか。

余談だが。
関ヶ原で、西軍は勝つ方法があったか?を考えてみたことがある。小早川秀秋の裏切りを不可避だとすると、たぶん2つのチャンスがあったと思われる。
第一に、関ヶ原戦前夜の「夜戦」進言を、三成が退けなかったとき。この策は、島津義弘が進言したもので、島左近も賛成したが、三成は家康に「堂々と勝つ必要がある」として退けたのである。西軍諸将の中で、家康に対抗できるほどの夜戦上手は島津しかいなかったはずで、その島津の進言を退けたことが関ヶ原戦当日の島津軍の傍観につながったのである。本書に言及はない。
夜戦については島津軍は日本一といっても良いほど強かったのであり、もしも進言を三成が入れていたら、東軍はかなりの痛撃を食ったことであろう。
ちなみに、本書では島津軍の兵の少なさを伊集院の反乱として説明しているが、実際は秀吉の九州征伐によって隠居させられた義久(義弘の兄)と義弘の反目が大きく影響しているはずである。

もう一つの方法は、毛利による「大阪籠城」である。関ヶ原戦の敗報を聞いた毛利輝元は、家康の本領安堵の甘言にのってさっさと大阪城を退去してしまう。ここで、もしも大阪に籠城されたら、徳川は一大事であった。瀬戸内海は毛利が握っているので、信長の石山本願寺攻めと同じく、戦線は膠着してしまい、何年もかかっただろう。なお悪いことに、伊勢志摩の九鬼義隆が東海道の輸送隊を海路から襲撃しまくっている。最悪、補給をたたれた大軍が立ち往生となった可能性がある。毛利は、徳川を大阪城に引きつけ、持久戦に持ち込めばよい。その間に上杉と佐竹が連合すれば、機を見るに敏な伊達がどう動いたか、しれたものでもない。結城秀康の留守部隊だけなら、佐竹単独で撃破できた可能性も高いであろう。
そのような展開を予想したのは黒田如水で、九州でせっせと近隣の城を落としつつ、大阪まで攻めあがって家康と決戦に及ぶ構想を描いていたようだが、毛利は予想外に馬鹿だったわけだ(苦笑)。

まあ、歴史にifなんてないのだけどね。想像して遊んでみるくらいのものである。そのぐらいしか楽しみがないもんですいません。